1 友光賢二郎 総格37画
功徳無し
神仏に功徳の見返りを求めない
僕たち私たちは、神仏に祈るときには、何らかの利益があるとして、その見返りを期待しています。交通安全、家内安全、合格祈願、事業発展などなど、数え上げればきりがありません。おそらく僕たち私たちは欲望の数だけ祈願して、その見返りとしての利益を期待しています。だが、利益などの功徳を求めるような信仰は、本当の信仰ではありません。たとえば「般若心経」を写経しても、多くのお布施やお賽銭を差し出したからといって、神仏からの利益をあてにして行ったのであれば、そこには何の功徳もありません。いっさいの欲得の心を持たずに、何の利益も期待することなく、ただ神仏を信じる。そこに「無心」という功徳が生まれてくるのです。
僕たち私たちは、神仏に祈るときには、何らかの利益があるとして、その見返りを期待しています。交通安全、家内安全、合格祈願、事業発展などなど、数え上げればきりがありません。おそらく僕たち私たちは欲望の数だけ祈願して、その見返りとしての利益を期待しています。だが、利益などの功徳を求めるような信仰は、本当の信仰ではありません。たとえば「般若心経」を写経しても、多くのお布施やお賽銭を差し出したからといって、神仏からの利益をあてにして行ったのであれば、そこには何の功徳もありません。いっさいの欲得の心を持たずに、何の利益も期待することなく、ただ神仏を信じる。そこに「無心」という功徳が生まれてくるのです。