1 名無しくん
塔婆について
『方便品』には、
「若しは廣野の中に於て土を積んで仏廟を成し、乃至、童子の戯れに沙を聚(あつ)めて仏塔と為れる。是の如き諸人等、皆巳に仏道を成じき」と、仏塔造立の功徳の甚大なることが説かれている。また『法師品』には、「若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。復、舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。此の中には、已に如来の全身有す。此の塔をば、応に一切の華香、瓔珞、繪蓋、幢旛、伎楽、歌頌を以って、供養恭敬、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て礼拝し供養せん。当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近ずきぬ」(開結)と、明らかに宝塔とは、砕身の舎利ではなく、『法華経』所住の塔であることを意味し、即、如来の法身として尊重すべきことが説かれている。
さらにまた、『法華経』においては、『見宝塔品』より『嘱累晶』に至るまで涌出した大宝塔を中心として、法義上、最も重要な久遠の開顕と付属の義が説き顕わされている。この大宝塔の意義を文底の仏法より拝すれば、即、人法一箇の南無妙法蓮華経の法体の意義となる。このことは、『諸法実相抄』の、「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座侯へ」(全集1358ページ)との御文に明らかである。すなわち、大聖人の文底仏法の上から宝塔の意義を御指南あそばされた『阿仏房御書』には、「多宝如来涌現の宝塔、何事を表し給うやと云云」「法華経の題目宝塔なり。宝塔又南無妙法蓮華経なり」「宝塔をかきあらはしまいらせ侯ぞ。(中略)出世の本懐とはこれなり」(全集1304)
と、宗祖御図顕の御本尊こそ宝塔であると仰せである。
「若しは廣野の中に於て土を積んで仏廟を成し、乃至、童子の戯れに沙を聚(あつ)めて仏塔と為れる。是の如き諸人等、皆巳に仏道を成じき」と、仏塔造立の功徳の甚大なることが説かれている。また『法師品』には、「若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。復、舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。此の中には、已に如来の全身有す。此の塔をば、応に一切の華香、瓔珞、繪蓋、幢旛、伎楽、歌頌を以って、供養恭敬、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て礼拝し供養せん。当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近ずきぬ」(開結)と、明らかに宝塔とは、砕身の舎利ではなく、『法華経』所住の塔であることを意味し、即、如来の法身として尊重すべきことが説かれている。
さらにまた、『法華経』においては、『見宝塔品』より『嘱累晶』に至るまで涌出した大宝塔を中心として、法義上、最も重要な久遠の開顕と付属の義が説き顕わされている。この大宝塔の意義を文底の仏法より拝すれば、即、人法一箇の南無妙法蓮華経の法体の意義となる。このことは、『諸法実相抄』の、「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座侯へ」(全集1358ページ)との御文に明らかである。すなわち、大聖人の文底仏法の上から宝塔の意義を御指南あそばされた『阿仏房御書』には、「多宝如来涌現の宝塔、何事を表し給うやと云云」「法華経の題目宝塔なり。宝塔又南無妙法蓮華経なり」「宝塔をかきあらはしまいらせ侯ぞ。(中略)出世の本懐とはこれなり」(全集1304)
と、宗祖御図顕の御本尊こそ宝塔であると仰せである。
2 名無しくん
「南無妙法蓮華経と唱うるものは、我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房。此れよリ外の才覚無益なり」(全集1304)南無妙法蓮華経と唱える弟子・檀那の一身が、まさに妙法の宝塔であると仰せである。
このことは、さらに『御義口伝』「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」の『宝塔品』の下に、「宝塔とは我等が五輪・五大なり」「妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり」「法界の塔婆にして十法界即塔婆なり」「妙法蓮華の見なれば、十界の衆生・三千の群類、皆自身の塔婆を見るなり」 「かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり。妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生、一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(全集797ページ)と仰せのように、大聖人の証道観心において、宝塔と塔婆は同義であり、法界の一切衆生が、そのまま妙法蓮華経の宝塔・妙法蓮華経の塔婆であることをお示しである。ただし、それは『草木成仏口決(ぐけつ)』に、「法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」(全集1339ページ)と仰せのように、この宇宙法界の全体が、本来、本仏日蓮大聖人の御身そのものであることの意義からの御指南である。故に、個々の衆生においては、南無妙法蓮華経を信受しなければ、そこに成仏があり得ないことは当然である。すなわち、『上野殿後家尼御返事』に、「いきてをはしき時は生の仏。今は死の仏。生死ともに仏なり」(全集1504ページ)と仰せのように、生きているときの成仏が、本仏御図顕の宝塔たる御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるところにあることは当然である。
このことは、さらに『御義口伝』「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」の『宝塔品』の下に、「宝塔とは我等が五輪・五大なり」「妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり」「法界の塔婆にして十法界即塔婆なり」「妙法蓮華の見なれば、十界の衆生・三千の群類、皆自身の塔婆を見るなり」 「かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり。妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生、一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(全集797ページ)と仰せのように、大聖人の証道観心において、宝塔と塔婆は同義であり、法界の一切衆生が、そのまま妙法蓮華経の宝塔・妙法蓮華経の塔婆であることをお示しである。ただし、それは『草木成仏口決(ぐけつ)』に、「法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」(全集1339ページ)と仰せのように、この宇宙法界の全体が、本来、本仏日蓮大聖人の御身そのものであることの意義からの御指南である。故に、個々の衆生においては、南無妙法蓮華経を信受しなければ、そこに成仏があり得ないことは当然である。すなわち、『上野殿後家尼御返事』に、「いきてをはしき時は生の仏。今は死の仏。生死ともに仏なり」(全集1504ページ)と仰せのように、生きているときの成仏が、本仏御図顕の宝塔たる御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるところにあることは当然である。
3 名無しくん
では、死の生命に対する回向は、どのようにすればよいのであろうか。これについて、大聖人は、『草木成仏口決』に、特に死者の成仏は塔婆の功徳にあることを、次のように仰せである。
「妙法とは有情の成仏なり。蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり。其の故は我等衆生死する時、塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(全集1338ページ)
すなわち、我々有情の一身の五大は、死後は宇宙法界の非情の中へ冥伏する。その冥伏した法界の非情とは、本来、無作三身の当体であるから、死後の生命の五大も、本来は仏身である。しかし、そこに宿業により、迷悟・染浄の相違が存する。故に、法界中の非情の草木をもって塔婆に建立し、開眼供養するところに、その功徳が法界冥伏の精霊に、ただちに回向されるのである。これが、塔婆供養の尊い意義であり、死の成仏たる草木成仏の本義であると、御指南されたのである。ただし、その塔婆の開眼供養とは、権教によってではなく、必ず仏教の根源の大法たる南無妙法蓮華経によらなければならないことは当然である。したがって、塔婆には、必ず御題目を書写しなくてはならないのである。このことを御教示された御書に、次の『中興入道御消息』がある。
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてて、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたリて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都卒の内院に生れん。況や、かのそとばに髄喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ侯人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つづみ(鼓)をうてばひびき(響)のあるがごとしとをぼしめし侯へ等云云。此れより後後の御そとばにも、法華経の題目を顕し給へ」(全集1334ページ)
「妙法とは有情の成仏なり。蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり。其の故は我等衆生死する時、塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(全集1338ページ)
すなわち、我々有情の一身の五大は、死後は宇宙法界の非情の中へ冥伏する。その冥伏した法界の非情とは、本来、無作三身の当体であるから、死後の生命の五大も、本来は仏身である。しかし、そこに宿業により、迷悟・染浄の相違が存する。故に、法界中の非情の草木をもって塔婆に建立し、開眼供養するところに、その功徳が法界冥伏の精霊に、ただちに回向されるのである。これが、塔婆供養の尊い意義であり、死の成仏たる草木成仏の本義であると、御指南されたのである。ただし、その塔婆の開眼供養とは、権教によってではなく、必ず仏教の根源の大法たる南無妙法蓮華経によらなければならないことは当然である。したがって、塔婆には、必ず御題目を書写しなくてはならないのである。このことを御教示された御書に、次の『中興入道御消息』がある。
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてて、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたリて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都卒の内院に生れん。況や、かのそとばに髄喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ侯人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つづみ(鼓)をうてばひびき(響)のあるがごとしとをぼしめし侯へ等云云。此れより後後の御そとばにも、法華経の題目を顕し給へ」(全集1334ページ)
4 名無しくん
このように、塔婆に南無妙法蓮華経の七字を認(したた)める功徳が、いかに大きいかを、わかりやすく御指南あそばされているのである(今日、我々僧侶は、塔婆に妙法蓮華経の五字を書写したてまつるが、その意義は理法としての妙法ではなく、事の一念三千たる南無妙法蓮華経である)。板塔婆はずっと後世のものである」などとの強言があるが、当御書にいわれる塔婆が、墓標などではないことは、「十三回忌のそとぱ(卒塔婆)」「これより後々の御そとば」等の仰せに明らかである。また、当御書では、南無妙法蓮華経を認めた塔婆を眼に見るとき、随喜するところの信心が大切であると仰せである。塔婆を建立して回向するときは、その功徳に感謝の念をもたなければならない。創価学会のように、塔婆の功徳を疑い、僧侶に対する怒リの気持ちで供養を行なっても、果たして先祖に真実の功徳が回向されようか。甚だ疑問といわねばならない。
大聖人が、塔婆に必ず南無妙法蓮華経と認めるべきことを御指南された所以は、題目が認められることによって、その塔婆が仏身の当体と顕われるからである。つまり、亡くなった人も、その妙法の仏の命の中に摂尽されて、本因成仏の大功徳を享受することができるのである。学会がいうところの、「板塔婆を死者の追善供養とすることが法華経に説かれている道理はまったくない」等という説は、法華経の文底の深義にのっとって、塔婆に南無妙法蓮華経と認めることにより、一切衆生が死の成仏の功徳を得ることを教えられた大聖人の大慈悲に背き、またきらに衆生の真実の成仏の道を塞ぐところの、無慈悲な言である。「板塔婆は日本だけの風習にすぎない」としている。しかし、日蓮正宗の正法にのっとった南無妙法蓮華経の塔婆の化儀は、人々の真実の成仏のため、正法広布に伴って、大いに世界に教え弘めなければならないのである。
大聖人が、塔婆に必ず南無妙法蓮華経と認めるべきことを御指南された所以は、題目が認められることによって、その塔婆が仏身の当体と顕われるからである。つまり、亡くなった人も、その妙法の仏の命の中に摂尽されて、本因成仏の大功徳を享受することができるのである。学会がいうところの、「板塔婆を死者の追善供養とすることが法華経に説かれている道理はまったくない」等という説は、法華経の文底の深義にのっとって、塔婆に南無妙法蓮華経と認めることにより、一切衆生が死の成仏の功徳を得ることを教えられた大聖人の大慈悲に背き、またきらに衆生の真実の成仏の道を塞ぐところの、無慈悲な言である。「板塔婆は日本だけの風習にすぎない」としている。しかし、日蓮正宗の正法にのっとった南無妙法蓮華経の塔婆の化儀は、人々の真実の成仏のため、正法広布に伴って、大いに世界に教え弘めなければならないのである。
5 名無しくん
次に、総本山第9世日有上人は、塔婆について、『化儀抄』に、「率都婆を立つる時は、大塔中にて十如是自我偶を読みて、さて彼の仏を立つる所にて又十如是自我偶を読むべし。是れ又事の一念三千の化儀を表するか」(富要1-66)
と仰せである。この文について、第66世日達上人は、次のように解説なされている。「卒塔婆とは、塔婆のことで、地水火風空の五輪の塔を表わす。大塔中とは、総本山歴代墓地の中央の宗祖大聖人並びに二祖及び三祖の大墓碑を指す。彼の仏を立つる所とは塔婆建立回向する、その墓をいう。亡者の追福作善のため塔婆を建てて回向する時は、塔婆を一度、大聖人の墓碑の所へ立てて、方便品・自我偶・唱題して、一度回向してから、その追善すべき亡者の墓へその塔婆を建立して、方便品・自我偶・唱題して、追善供養するのであリます。これが師弟相対した事の一念三千の化儀を表わしたことになるのであリます」(日達上人述『略解』)。これらの御指南は、本宗において、大聖人以来、塔婆を建立して功徳を回向することが、死者の成仏・追善のための化儀とされたことを証明するものである。また、同時に、本宗の塔婆供養とは、単に、題目を書写した塔婆を建立すればよいというものではない。あくまでも、本仏大聖人に対する師弟相対の信心にのっとった化儀であることを示されているのである。すなわち、塔婆供養に際して、大切なことは、一旦、全ての塔婆を、必ず大聖人(仏)の御墓の傍らに立てて供養し、その後に各自の墓に立てて供養するということである。この化儀は、今日、塔婆を各寺院の仏前の傍らに立てて回向することとして、厳然と伝えられている。これは、本仏大聖人を、どこまでも根本の大師匠と仰ぐ信心こそが、末法の衆生の成仏にとって不可欠だからである。すなわち、この化儀にのっとった塔婆回向によって、末法の亡き衆生は、御本仏大聖人と冥合し、唯一の大歓喜の成仏を享受することができるのである。本宗の塔婆供養には、かかる厳格な意義が存することを知らなくてはならないのである。同時に、その塔婆供養の甚深の意義を誹謗することは、宗祖大聖人、及び御歴代上人の御指南に背く大謗法であり、忘恩の所業となることを忘れてはならないのである
と仰せである。この文について、第66世日達上人は、次のように解説なされている。「卒塔婆とは、塔婆のことで、地水火風空の五輪の塔を表わす。大塔中とは、総本山歴代墓地の中央の宗祖大聖人並びに二祖及び三祖の大墓碑を指す。彼の仏を立つる所とは塔婆建立回向する、その墓をいう。亡者の追福作善のため塔婆を建てて回向する時は、塔婆を一度、大聖人の墓碑の所へ立てて、方便品・自我偶・唱題して、一度回向してから、その追善すべき亡者の墓へその塔婆を建立して、方便品・自我偶・唱題して、追善供養するのであリます。これが師弟相対した事の一念三千の化儀を表わしたことになるのであリます」(日達上人述『略解』)。これらの御指南は、本宗において、大聖人以来、塔婆を建立して功徳を回向することが、死者の成仏・追善のための化儀とされたことを証明するものである。また、同時に、本宗の塔婆供養とは、単に、題目を書写した塔婆を建立すればよいというものではない。あくまでも、本仏大聖人に対する師弟相対の信心にのっとった化儀であることを示されているのである。すなわち、塔婆供養に際して、大切なことは、一旦、全ての塔婆を、必ず大聖人(仏)の御墓の傍らに立てて供養し、その後に各自の墓に立てて供養するということである。この化儀は、今日、塔婆を各寺院の仏前の傍らに立てて回向することとして、厳然と伝えられている。これは、本仏大聖人を、どこまでも根本の大師匠と仰ぐ信心こそが、末法の衆生の成仏にとって不可欠だからである。すなわち、この化儀にのっとった塔婆回向によって、末法の亡き衆生は、御本仏大聖人と冥合し、唯一の大歓喜の成仏を享受することができるのである。本宗の塔婆供養には、かかる厳格な意義が存することを知らなくてはならないのである。同時に、その塔婆供養の甚深の意義を誹謗することは、宗祖大聖人、及び御歴代上人の御指南に背く大謗法であり、忘恩の所業となることを忘れてはならないのである
6 名無しくん
「塔婆は形式にすぎないのではありませんか」との質問に対し、「形式ではありません。仏法上の儀式であります、色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。」(戸田城聖全集2-176)と述べ、塔婆供養とは、深い法義に基づいた、仏法上の重要な儀式であると指導されている。また、さらに池田名誉会長も、昭和59年2月28目、ブラジル一乗寺における物故者追善法要の際の挨拶の中で、塔婆供養の意義についてその功徳の大きいことを述べている。
これらの指導と、今回の塔婆供養軽視の誹謗とは、一体、どうしたら辻褄が合うのか。もっとも、無節操に変更して何の痛痒も感じないほど、学会の教学に対する態度はいい加減なものであったのかも知れない。
宗門僧侶が、塔婆回向で金儲けをしているとの非難の記事である。この塔婆金儲け論は、繰リ返し繰リ返し、執拗に展開し、口汚く批判している。特別財務などで一般会員かつのら多額の寄付を募っていると、下衆のかんぐりをして、死者の成仏の要儀である塔婆供養に対してまでも、金儲けの手段であると思ってしまうらしい。年に一度も使わない名誉会長専用施設や、世間でもとかく噂のある絵画疑惑などのために、特別財務・広布基金なる名目で多額の金を吸い上げられるより、自らの先祖に、真実の仏法の功徳を、確実に回向される塔婆を建立するほうが、どれだけ尊いか。『新池御書』の、「無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。」(全集1440)との御文をよくよく拝するべきである。
塔婆供養の功徳を知らない学会員に、その功徳の大きいことを教えた僧侶を、「食法餓鬼」と、邪宗の僧侶呼ばわりをしている。三宝破壊の謗法集団に堕した創価学会首脳幹部の言論におぞましさを感ずるのは、ひとり僧侶だけではなかろう
これらの指導と、今回の塔婆供養軽視の誹謗とは、一体、どうしたら辻褄が合うのか。もっとも、無節操に変更して何の痛痒も感じないほど、学会の教学に対する態度はいい加減なものであったのかも知れない。
宗門僧侶が、塔婆回向で金儲けをしているとの非難の記事である。この塔婆金儲け論は、繰リ返し繰リ返し、執拗に展開し、口汚く批判している。特別財務などで一般会員かつのら多額の寄付を募っていると、下衆のかんぐりをして、死者の成仏の要儀である塔婆供養に対してまでも、金儲けの手段であると思ってしまうらしい。年に一度も使わない名誉会長専用施設や、世間でもとかく噂のある絵画疑惑などのために、特別財務・広布基金なる名目で多額の金を吸い上げられるより、自らの先祖に、真実の仏法の功徳を、確実に回向される塔婆を建立するほうが、どれだけ尊いか。『新池御書』の、「無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。」(全集1440)との御文をよくよく拝するべきである。
塔婆供養の功徳を知らない学会員に、その功徳の大きいことを教えた僧侶を、「食法餓鬼」と、邪宗の僧侶呼ばわりをしている。三宝破壊の謗法集団に堕した創価学会首脳幹部の言論におぞましさを感ずるのは、ひとり僧侶だけではなかろう
7 名無しくん
次に、「塔婆建立の本数と信心の厚薄とは無関係」という塔婆の本数に関する発言について述べておく。塔婆供養が、大聖人の仏法の全てということではないから、確かに塔婆の本数にこだわる必要はない。しかし、塔婆の建立が信心の翼われという観点からすれば、塔婆建立の本数の多い人は、やはり信心が厚いといえる。大聖人は、『出家功徳御書』において、「出家功徳経に云く『高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも、一日出家の功徳は勝れたり』と」(全集1251)と、『出家功徳経』を引用されている。この経の意は、もともと出家の功徳の甚大なることを証するところにある。しかし、ここでいいたいのは、この出家の功徳の比較対象として、「百千の塔婆」を挙げていることである。大聖人は、御書中で、1本の塔婆ですら、大変な功徳があると仰せである。しかし、ここには、「百千」という具体的な数が挙げられている。これは「百千の塔婆」をもって無量の功徳に擬(なぞら)えていることであるから、塔婆建立の本数は、やはり信心に関係するといえるのである。
したがって、数年に1本しか塔婆を建立しない人よりも、毎年、あるいは毎月、塔婆を建立して、父母や先祖の追善供養をする人のほうが、信心は厚いのである。反対に、公然と「塔婆建立の本数と信心の厚薄とは無関係」といって、あたかも塔婆供養は不要であるようなことを主張する学会大幹部が、数年に1本しか塔婆を建立しない人よりも、格段に信心がたりないことは、いうまでもないことである。
さらに、「常盆常彼岸が追善供養の根本」との記事についてであるが、毎日の勤行が、本宗信徒としての根本の修行であることは当然である。その上に、三宝に供養を申し上げ、功徳を回向することが、正しい先祖供養の道である。このことは、先に挙げた大聖人の御指南からも明白である。また、孟蘭盆会における聖僧供養の意義からも明らかなように、「仏宝・法宝は僧によって住する」のである。末法万年にわたって、法を伝えるところの僧侶に、回向を願って供養することは、そのまま僧団維持・令法久住に貢献し、ひいては末法万年の衆生を潤すこととなって、先祖供養の功徳を、一層増進するのである。
したがって、数年に1本しか塔婆を建立しない人よりも、毎年、あるいは毎月、塔婆を建立して、父母や先祖の追善供養をする人のほうが、信心は厚いのである。反対に、公然と「塔婆建立の本数と信心の厚薄とは無関係」といって、あたかも塔婆供養は不要であるようなことを主張する学会大幹部が、数年に1本しか塔婆を建立しない人よりも、格段に信心がたりないことは、いうまでもないことである。
さらに、「常盆常彼岸が追善供養の根本」との記事についてであるが、毎日の勤行が、本宗信徒としての根本の修行であることは当然である。その上に、三宝に供養を申し上げ、功徳を回向することが、正しい先祖供養の道である。このことは、先に挙げた大聖人の御指南からも明白である。また、孟蘭盆会における聖僧供養の意義からも明らかなように、「仏宝・法宝は僧によって住する」のである。末法万年にわたって、法を伝えるところの僧侶に、回向を願って供養することは、そのまま僧団維持・令法久住に貢献し、ひいては末法万年の衆生を潤すこととなって、先祖供養の功徳を、一層増進するのである。
8 名無しくん
大聖人の御本尊の中には、「弘安3年2月彼岸第六番(彼岸が7日ある中の第6日日のこと)」という日付の御本尊が現存している。また、日興上人の御本尊の中にも、日付に「彼岸」ふくの語が認められた御本尊が5幅、彼岸の中日を意味する「時正」の語が認められた御本尊が1幅現存し、日日上人の御本尊の中にも、「正慶2年2月彼岸」の日付のある御本尊が現存している。さらにいえぱ、日興上人の『曾禰(そね)殿御返事』に、「彼岸御仏料、員数の如く見参侯い了ぬ。富士郡の珍物に侯上は、申し尽し難く侯」(歴全1-149)
とあるように、日興上人の当時、本宗において、彼岸の追善回向を行なっていたことは明らかである。あまつさえ、唯我与我の日興上人が、大聖人の、「我等衆生死する時塔婆を立て、開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(全集1339)と仰せの甚深の意義を体さないはずはなかろう。それを、「随方毘尼の例として拝すべき」などと勝手に断定して述べるのは、仏法上の化儀の指導を受けるべき本宗信徒として、大なる越権の謗法行為である。
とあるように、日興上人の当時、本宗において、彼岸の追善回向を行なっていたことは明らかである。あまつさえ、唯我与我の日興上人が、大聖人の、「我等衆生死する時塔婆を立て、開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(全集1339)と仰せの甚深の意義を体さないはずはなかろう。それを、「随方毘尼の例として拝すべき」などと勝手に断定して述べるのは、仏法上の化儀の指導を受けるべき本宗信徒として、大なる越権の謗法行為である。
9 班◆KfRH
>>1-6
名無し‥‥見苦しいぞ‥!大聖人は死人に対して塔婆供養をしろとは言ってない。
お前がゴマかしても言ってないものは言ってない。
今後も得意の雪崩式ゴマかしだろ?(爆!
お前の言い訳、坊主が見たら感謝すんだろな!
「こんな馬鹿がまだいるのか」ってよ(超爆!
折角の蓮レスだが、答えにはなってない。
また俺の勝ちだ
名無し‥‥見苦しいぞ‥!大聖人は死人に対して塔婆供養をしろとは言ってない。
お前がゴマかしても言ってないものは言ってない。
今後も得意の雪崩式ゴマかしだろ?(爆!
お前の言い訳、坊主が見たら感謝すんだろな!
「こんな馬鹿がまだいるのか」ってよ(超爆!
折角の蓮レスだが、答えにはなってない。
また俺の勝ちだ
10 名無しくん
まず、死者の苦しみが遺族に影響するということに対して、「霊魂説に基づく『たたり信仰』であり、仏教の教義ではない」とする学会のいい分は、はたして正しいのであろうか。これについて、大聖人は、『孟蘭盆御書』に、「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり侯けるなり」(全集1430)と仰せである(7代日の子孫からすれば、先祖の悪業の苦の影響を受けることになるのである)。また、『忘持経事』には、 「我が頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり、譬えば種子と菓子と身と影との如し」(全集977)
と仰せであり、同様のことは目連尊者と青提女(しょうだいにょ)についても諸御書に仰せである。学会では、死者の苦しみが生者に影響するというのは、仏教の教義ではないとするが、そのような低級な考え方は、今時のインド仏教学の先生あたりの説をありがたがっている、権威好きな学会のいいそうなことである。法華経で説く一切衆生の生命の永遠ということが、霊魂として浮遊し、崇りをなすという意でないのは、当然である。存続するのは、あくまでも業をうける因果の当体としての生命の一念である。この一念とは、いわゆる霊魂のような個別の存在とは異なる。つまり、死後に無に帰するのではなく、厳然と因果の苦楽の業を受けていくところの、いわば生命の主体といわなければならない。大聖人は、常に生者の成仏が、父母等有縁の人々の成仏に通ずることを御指南あそばされているが、先に挙げた『孟蘭盆御書』に説かれるところは、逆に悪業の因縁も、有縁の人には影響があるというもので、法界一念三千の不思議な実相を説かれたものといえよう。今時の学者の理解をはるかに越えた、法界の生命の不可思議を説かれた、御本仏の御指南と拝すべきなのである。また『撰時抄』には、
「法然・流罪をあだみて悪霊となって、我並ぴに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入って、或は謀反ををこし、或は悪事をなして皆関東にほろぼされぬ」(全集274)
と仰せであり、同様のことは目連尊者と青提女(しょうだいにょ)についても諸御書に仰せである。学会では、死者の苦しみが生者に影響するというのは、仏教の教義ではないとするが、そのような低級な考え方は、今時のインド仏教学の先生あたりの説をありがたがっている、権威好きな学会のいいそうなことである。法華経で説く一切衆生の生命の永遠ということが、霊魂として浮遊し、崇りをなすという意でないのは、当然である。存続するのは、あくまでも業をうける因果の当体としての生命の一念である。この一念とは、いわゆる霊魂のような個別の存在とは異なる。つまり、死後に無に帰するのではなく、厳然と因果の苦楽の業を受けていくところの、いわば生命の主体といわなければならない。大聖人は、常に生者の成仏が、父母等有縁の人々の成仏に通ずることを御指南あそばされているが、先に挙げた『孟蘭盆御書』に説かれるところは、逆に悪業の因縁も、有縁の人には影響があるというもので、法界一念三千の不思議な実相を説かれたものといえよう。今時の学者の理解をはるかに越えた、法界の生命の不可思議を説かれた、御本仏の御指南と拝すべきなのである。また『撰時抄』には、
「法然・流罪をあだみて悪霊となって、我並ぴに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入って、或は謀反ををこし、或は悪事をなして皆関東にほろぼされぬ」(全集274)
11 名無しくん
との文がある。この「悪霊」の旬も、いわゆる霊魂として述べられたものでないことは当然であって、謗法者の悪業の因縁が影響し合うことを仰せられたものと拝されるのである。
ともあれ、仏法に説き明かされる生命の実相とは、まことに不可思議なのである。生死を超越した一念三千の融通無碍(ゆうづうむげ)の世界が、この法界であり、因縁によって、有縁の人の善業・悪業の影響を、ともに強くも、あるいは弱くも受けるのである。このことは、むしろ当然といえる。この生命の実相を、あえて否定する学者の説は、小乗の空理にとらわれた迷見といわねばならない
ともあれ、仏法に説き明かされる生命の実相とは、まことに不可思議なのである。生死を超越した一念三千の融通無碍(ゆうづうむげ)の世界が、この法界であり、因縁によって、有縁の人の善業・悪業の影響を、ともに強くも、あるいは弱くも受けるのである。このことは、むしろ当然といえる。この生命の実相を、あえて否定する学者の説は、小乗の空理にとらわれた迷見といわねばならない
12 班◆KfRH
13 名無しくん
次に、塔婆供養をすると、未来のできごとを予知でき、事前に悩みや苦しみが除けるとの件について述べることとする。「未来を予知でき、悩みが除ける」というと、まるで新興宗教のキャッチフレーズのように聞こえるが、これとても、決して仏法法義から、かけ離れたことではない。すなわち、『聖人知三世事』ほか諸御書に、仏の徳として未萠を知ることが説かれているところである。我々が信仰に励む上で、御仏智を頂き、後から考えると、まるで未来が判っていたかのような行動を、自然のうちにとっていて、護られたというような体験は、よく聞くところてある。これこそ信心の功徳であり、本因妙の仏としてして未萠を知ることの一分であろう。塔婆を建立する功徳として、未来の予知等の種々の功徳が述べられているが、これは経文の中から、一応その功徳を挙げたものである。それも、全て御本尊を根本とした信心の功徳と受け止めていくべきことなのである。故に、『日蓮正宗の行事』では、塔婆の功徳を説明する最後において、その一切を御本尊への信心に括って、説明を終了しているのである。このような配慮を無視して、単に経文に説かれるところを挙げた箇所のみを取り上げ、誹謗するとは、その底意たるや、まあわさに憐れむべしである
14 班◆KfRH
御書の解釈ができない者が仏の金言を羅列したところで何になる?
この馬鹿野郎
この馬鹿野郎
15 班◆KfRH
16 名無しくん
まず宝塔と塔婆は同義語である。
過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん」と塔婆供養の功徳を説いている。
「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」
とも説いている。
さらに此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給えとある。
つまりこれは弟子に教示してる。
そして日興上人が彼岸に追善供養をしている。日興上人が大聖人の教え
『此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給え』『「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」』
を無視する訳が無い。つまりその時代に塔婆を建てていたことになる。
このように記録が無いから塔婆を建てていないとは言えないのである。
記録が無い≠塔婆を建てて無いと言う事。
そして日蓮大聖人がこう仰せなんだから
此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給えとある。
日蓮大聖人が塔婆を建てていないとは言い切れないのである。
日蓮大聖人が塔婆を建てるよう教示したと言うことは大聖人自らも塔婆を建てたと言う事になる。大聖人が弟子に教示した事を大聖人自らがしないと考えるのは如何なものかね?
過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん」と塔婆供養の功徳を説いている。
「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」
とも説いている。
さらに此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給えとある。
つまりこれは弟子に教示してる。
そして日興上人が彼岸に追善供養をしている。日興上人が大聖人の教え
『此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給え』『「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」』
を無視する訳が無い。つまりその時代に塔婆を建てていたことになる。
このように記録が無いから塔婆を建てていないとは言えないのである。
記録が無い≠塔婆を建てて無いと言う事。
そして日蓮大聖人がこう仰せなんだから
此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給えとある。
日蓮大聖人が塔婆を建てていないとは言い切れないのである。
日蓮大聖人が塔婆を建てるよう教示したと言うことは大聖人自らも塔婆を建てたと言う事になる。大聖人が弟子に教示した事を大聖人自らがしないと考えるのは如何なものかね?
17 名無しくん
班は大聖人が塔婆を建てろと書いてない
此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給えとある。
大聖人の先師は成仏出来ない
大聖人自ら塔婆の必要性を教示してるのに、自らが塔婆を建てない無責任な事をすると思うのかね。
つまりだ、大聖人は先師の塔婆を建てていたと考えるのが妥当である。
記録の有無だけを頼りにするのは間違いである。
逆に塔婆は必要無いと言う事は
「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」
此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給え。
との教えを無視する事になる。
分かったか馬鹿班。
レス終わるまで邪魔するなと言ったのにマナーが無いな
此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給えとある。
大聖人の先師は成仏出来ない
大聖人自ら塔婆の必要性を教示してるのに、自らが塔婆を建てない無責任な事をすると思うのかね。
つまりだ、大聖人は先師の塔婆を建てていたと考えるのが妥当である。
記録の有無だけを頼りにするのは間違いである。
逆に塔婆は必要無いと言う事は
「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」
此より後々の御卒塔にも題目を顕し(書写)給え。
との教えを無視する事になる。
分かったか馬鹿班。
レス終わるまで邪魔するなと言ったのにマナーが無いな
18 無名さん
名無しくん汗
19 無名さん
名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね
20 無名さん
名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね 名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね
21 無名さん
名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね
22 反
あらあら(笑)
論破されて負けた
腹いせですかwww
論破されて負けた
腹いせですかwww
23 無名さん
↑これ名無し プギャ―――
24 反
25 名無しくん
◆[卒塔婆]=死者の追善供養のために立てる、塔をかたどった木板。(中略)中国や日本では三重や五重の木造の塔が多い。後に、死者の追善供養のために塔の形の切り込みをつけた細長い板に、経文や戒名、命日などを記して、墓のそばに立てる風習が生まれ、現在ではこの板のことをいうようになった(『新版仏教哲学大辞典・聖教新聞社版』)
塔婆の意義と目的を説明しており、『班』の言い分とは、ずいぶん食い違っている。
●我が滅度の後、我が全身を供養せんと欲せん者は、応に一の大塔を起つべし(法華経338頁)と日蓮大聖人は供養のために、大塔すなわち塔婆の建立を勧められているではないか。※「釈尊の時代に説いたもの」などと誹謗しているが、我々末法の衆生は下種仏法によってのみ成仏できるのである。そうであれば、下種の仏様であられる大聖人の御指南に従うべきである。大聖人は、釈尊の教えを用いられてはいるが、あくまでも下種仏法の立場から解釈されているのであり、経典の文々句々を文字通りには用いられていない。逆に、仏教本来の化儀ではなくとも、下種仏法の修行にとって有益である場合には、これを取り入れられている(随方毘尼、四悉檀)。
『草木成仏口決』では、「我等衆生死する時塔婆を立てて開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」と仰せられ、また『中興入道御消息』では「そとば(卒塔婆)を立てゝ」「此れより後々の御そとばにも」と仰せられている。また孝養の人並びに妻子は現世には寿(いのち)百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事…これらの御文を素直に拝せば、亡者の供養のためには塔婆を立てるべきこと、また、現在と将来建立されるであろう塔婆についても言及され、その塔婆には題目の書写を認めるよう、御指南されているのである。もし、『班』のいうように、単に「題目を根本にした信心」を御教示されたのであれば、塔婆供養の志主(願主)に備わる功徳を説かれる必要など、まったくない。
塔婆の意義と目的を説明しており、『班』の言い分とは、ずいぶん食い違っている。
●我が滅度の後、我が全身を供養せんと欲せん者は、応に一の大塔を起つべし(法華経338頁)と日蓮大聖人は供養のために、大塔すなわち塔婆の建立を勧められているではないか。※「釈尊の時代に説いたもの」などと誹謗しているが、我々末法の衆生は下種仏法によってのみ成仏できるのである。そうであれば、下種の仏様であられる大聖人の御指南に従うべきである。大聖人は、釈尊の教えを用いられてはいるが、あくまでも下種仏法の立場から解釈されているのであり、経典の文々句々を文字通りには用いられていない。逆に、仏教本来の化儀ではなくとも、下種仏法の修行にとって有益である場合には、これを取り入れられている(随方毘尼、四悉檀)。
『草木成仏口決』では、「我等衆生死する時塔婆を立てて開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」と仰せられ、また『中興入道御消息』では「そとば(卒塔婆)を立てゝ」「此れより後々の御そとばにも」と仰せられている。また孝養の人並びに妻子は現世には寿(いのち)百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事…これらの御文を素直に拝せば、亡者の供養のためには塔婆を立てるべきこと、また、現在と将来建立されるであろう塔婆についても言及され、その塔婆には題目の書写を認めるよう、御指南されているのである。もし、『班』のいうように、単に「題目を根本にした信心」を御教示されたのであれば、塔婆供養の志主(願主)に備わる功徳を説かれる必要など、まったくない。
26 名無しくん
宝塔と塔婆は同義と創価版辞典に書いてある
また、他の御書において「題目」を説かれる箇所は「唱える」ことの意義だが、この『中興入道御消息』では「題目を顕はし」すなわち、題目を書写した塔婆の功徳を述べられているのであって、両者はまったく相違している。
その点について『創価』は故意に触れていないのである。
塔婆の化儀を否定するなら、五重塔脇の戸田城聖氏の墓地に、盆や彼岸の際、氏の塔婆を建立していた池田に対し、「センセーは間違ったことをした」と、しっかり指摘し、さらに、以下の戸田会長の指導は「間違いです」と、会員に周知徹底せよ。
さなくば、戸田指導と真っ向から矛盾する発言をなす班は、師敵対の批判を甘受しなければならない。
塔婆供養を「荒稼ぎ」というならば、前述のような指導をした戸田氏も、また以前、総本山に対し、各地の学会墓園への僧侶の派遺を依頼し、「塔婆供養もできます」と言って会員らを勧誘した学会組織そのものも、「荒稼ぎ」の仲間ということになるが、如何。
また、他の御書において「題目」を説かれる箇所は「唱える」ことの意義だが、この『中興入道御消息』では「題目を顕はし」すなわち、題目を書写した塔婆の功徳を述べられているのであって、両者はまったく相違している。
その点について『創価』は故意に触れていないのである。
塔婆の化儀を否定するなら、五重塔脇の戸田城聖氏の墓地に、盆や彼岸の際、氏の塔婆を建立していた池田に対し、「センセーは間違ったことをした」と、しっかり指摘し、さらに、以下の戸田会長の指導は「間違いです」と、会員に周知徹底せよ。
さなくば、戸田指導と真っ向から矛盾する発言をなす班は、師敵対の批判を甘受しなければならない。
塔婆供養を「荒稼ぎ」というならば、前述のような指導をした戸田氏も、また以前、総本山に対し、各地の学会墓園への僧侶の派遺を依頼し、「塔婆供養もできます」と言って会員らを勧誘した学会組織そのものも、「荒稼ぎ」の仲間ということになるが、如何。
27 名無しくん
創価版仏教辞典を引用して考えると御義口伝とかも塔婆の対象になるな
28 班◆KfRH
29 名無しくん
おんやぁ
最初の頃のレスでも宝塔=塔婆と証明したと言ったはずだが?難し過ぎて理解出来ませんでしたか
理解出来ないだろうとは思ったが
分かり易くするための文証で苦労したぜぇ。理解出来ないお馬鹿さんだからよ〜
創価新版仏教大辞典でも調べたら?
後で戸田指導も記載してやるよ。
第一、顕す=書写と何回も指摘しましたが?
唱える≠顕すじゃないから
中興入道御消息のどこに唱えると書いてありますか?
最初の頃のレスでも宝塔=塔婆と証明したと言ったはずだが?難し過ぎて理解出来ませんでしたか
理解出来ないだろうとは思ったが
分かり易くするための文証で苦労したぜぇ。理解出来ないお馬鹿さんだからよ〜
創価新版仏教大辞典でも調べたら?
後で戸田指導も記載してやるよ。
第一、顕す=書写と何回も指摘しましたが?
唱える≠顕すじゃないから
中興入道御消息のどこに唱えると書いてありますか?
30 無名さん
まだやってるよ負け犬イジ ワンワン
31 無名さん
>>29散々考えてこの程度なのイジくん
充分に時間あったでしょうに
充分に時間あったでしょうに
32 名無しくん
>>29回答用意しておけよわっはっはっ
馬鹿に分かるようにするの大変なんだがな
塔婆とは卒塔婆の略である。現在日本では塔の形をした木片をさす。仏塔を簡略化し五大を表したものである。
塔とは卒塔婆(ストゥバー=そとうば)、塔婆の略であり、本来は五重塔、三重塔などの仏塔の意味である。
ウィキペディアより引用
ウィキペディアの塔婆に関する内容を考慮に入れるならば、班がレスした四条金吾・御義口伝塔の内容も塔婆に関するものとなる。
。
馬鹿に分かるようにするの大変なんだがな
塔婆とは卒塔婆の略である。現在日本では塔の形をした木片をさす。仏塔を簡略化し五大を表したものである。
塔とは卒塔婆(ストゥバー=そとうば)、塔婆の略であり、本来は五重塔、三重塔などの仏塔の意味である。
ウィキペディアより引用
ウィキペディアの塔婆に関する内容を考慮に入れるならば、班がレスした四条金吾・御義口伝塔の内容も塔婆に関するものとなる。
。
33 名無しくん
@日蓮大聖人の教えを愚弄して問題ないんですかぁ?
A創価版仏教大辞典(新版)やウィキペディアに書いてある事と、創価の誹謗内容は違うんですが、その矛盾を説明してください。
俺のレスの時間にケチつけたんだから即答出来るよな。はいどぞっ
A創価版仏教大辞典(新版)やウィキペディアに書いてある事と、創価の誹謗内容は違うんですが、その矛盾を説明してください。
俺のレスの時間にケチつけたんだから即答出来るよな。はいどぞっ
34 無名さん
名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね名無し死ね
35 名無しくん
>>33の回答お待ちしてます。創価名物の荒らしが出たから決まりかな
36 タヌキ
イジ、学会の荒らしの役まで…涙
37 無名さん
もうイジなんか相手にしなくていーよ
名無しじゃなくイジのハンネを使えよ
せっかくいいハンネもらったのによ
名無しじゃなくイジのハンネを使えよ
せっかくいいハンネもらったのによ
38 無名さん
イジよ〜 お前に質問の権利なんかねーよ
負けのゴマカシに必死だなイジ ププッ
負けのゴマカシに必死だなイジ ププッ
39 名無しくん
あははははっ
あれだけ威勢良かったのにね〜
御義口伝等書くまでもなかったか
あれだけ威勢良かったのにね〜
御義口伝等書くまでもなかったか
40 名無しくん
質問の権利が無い?
質問されるのが怖いんだろ
勝手に書こう
質問されるのが怖いんだろ
勝手に書こう
41 反
42 無名さん
↑ひとり二役大変だねイジ
43 名無しくん
44 無名さん
age
45 名無しくん
あげ〜
46 名無しくん
早く答えろ
47 名無しくん
あげ
48 名無しくん
イジめるつもりがイジめられ俺1人に学会員全員ボロ負け
49 本堂
既成の教団に飽き足らずの方、宗教ビジネスを考えている方
一緒にやりませんか?
一緒にやりませんか?
50 害虫バスター名無しくん
スレ保護のアゲ
51 無名さん
アゲ
52 無名さん
名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい名無しは頭おかしい死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
53 害虫バスター名無しくん
アゲ
54 害虫バスター名無しくん
戦争推進するな
55 害虫バスター名無しくん
逃げねーで答えろよ。勝利の団体なんだろ?オメーらの勝利とは逃げることか?恥ずかしくねーのか?法華講員1人に池田の自慢の創価学会が逃げてるよわっはっは
56 無名さん
名無しってバカ?
57 害虫バスター名無しくん
造花学会に言われたくないな
58 牧口常三郎
天皇陛下万歳
59 害虫バスター名無しくん
造花学会員の回答まだぁ?
60 本堂
回答 既成の教団に飽き足らずの方、宗教ビジネスを考えている方
一緒にやりませんか?
一緒にやりませんか?
61 戦争容認=殺人=創価学会
造花学会反論出来ず
62 無名さん
三瓶です
63 戦争容認=殺人=創価学会
これも御書軽視
64 無名さん
↑
御書軽視はあんたらだろう?
行動がないから27万人しかいないのだから
御書軽視はあんたらだろう?
行動がないから27万人しかいないのだから
65 戦争容認=殺人=創価学会
塔婆に関する御書も無視
ワッハッハッ
御書に人数云々言うのは愚かだとの記述はあるが、数云々が正義とは書いてないな。どの御書に書いてあるんですかね。
どうせ答えられないだろうがな
その数は昔のデータで海外信者の数等も抜いて書いてますな
ワッハッハッ
御書に人数云々言うのは愚かだとの記述はあるが、数云々が正義とは書いてないな。どの御書に書いてあるんですかね。
どうせ答えられないだろうがな
その数は昔のデータで海外信者の数等も抜いて書いてますな
66 無名さん
あくまで数字は結果だよ。750年間で30万弱じゃ何も言えないよイジくん。
数字が多いほうが正しいとは言わないが、蓮祖の金言を実行すれば現在の講員数は疑問だがね。
それに檀家制度があったから今の数字であって、もし檀家制度がなかったら、もっと少なかったはずだよ。君のレスを見るとき、君が何を言いたいのかが、わからない。
無駄なことは止めて信心をすることだね。
数字が多いほうが正しいとは言わないが、蓮祖の金言を実行すれば現在の講員数は疑問だがね。
それに檀家制度があったから今の数字であって、もし檀家制度がなかったら、もっと少なかったはずだよ。君のレスを見るとき、君が何を言いたいのかが、わからない。
無駄なことは止めて信心をすることだね。
67 無名さん
塔婆で論破されたのはお前じゃ
♂
♂
68 イジバスター
おい、卑怯者、よく顔だせるな、お前、
今後の学会の活躍をよ〜く水戸家
今後の学会の活躍をよ〜く水戸家
69 戦争容認=殺人=創価学会
御書で答えられないでやんの
御書根本が聞いて呆れる。宝塔と塔婆が別物とほざいたのは馬鹿班。創価版仏教大辞典と矛盾してる回答を逃げたまま
御書根本が聞いて呆れる。宝塔と塔婆が別物とほざいたのは馬鹿班。創価版仏教大辞典と矛盾してる回答を逃げたまま
70 無名さん
っつか、かわいそ〜〜〜なイジ。
正宗坊主を信じてるバカがいるなんて…。
坊主もビックリしてるよ。坊主が他の坊主を信じてないのに、イジが信じてる。ご立派、ご立派。
正宗坊主を信じてるバカがいるなんて…。
坊主もビックリしてるよ。坊主が他の坊主を信じてないのに、イジが信じてる。ご立派、ご立派。