1 名無しくん

塔婆について

『方便品』には、
「若しは廣野の中に於て土を積んで仏廟を成し、乃至、童子の戯れに沙を聚(あつ)めて仏塔と為れる。是の如き諸人等、皆巳に仏道を成じき」と、仏塔造立の功徳の甚大なることが説かれている。また『法師品』には、「若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。復、舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。此の中には、已に如来の全身有す。此の塔をば、応に一切の華香、瓔珞、繪蓋、幢旛、伎楽、歌頌を以って、供養恭敬、尊重讃歎したてまつるべし。若し人有って、此の塔を見たてまつることを得て礼拝し供養せん。当に知るべし、是等は皆、阿耨多羅三藐三菩提に近ずきぬ」(開結)と、明らかに宝塔とは、砕身の舎利ではなく、『法華経』所住の塔であることを意味し、即、如来の法身として尊重すべきことが説かれている。
さらにまた、『法華経』においては、『見宝塔品』より『嘱累晶』に至るまで涌出した大宝塔を中心として、法義上、最も重要な久遠の開顕と付属の義が説き顕わされている。この大宝塔の意義を文底の仏法より拝すれば、即、人法一箇の南無妙法蓮華経の法体の意義となる。このことは、『諸法実相抄』の、「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座侯へ」(全集1358ページ)との御文に明らかである。すなわち、大聖人の文底仏法の上から宝塔の意義を御指南あそばされた『阿仏房御書』には、「多宝如来涌現の宝塔、何事を表し給うやと云云」「法華経の題目宝塔なり。宝塔又南無妙法蓮華経なり」「宝塔をかきあらはしまいらせ侯ぞ。(中略)出世の本懐とはこれなり」(全集1304)
と、宗祖御図顕の御本尊こそ宝塔であると仰せである。
2 名無しくん
「南無妙法蓮華経と唱うるものは、我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」「今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり。此の五大は題目の五字なり。然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房。此れよリ外の才覚無益なり」(全集1304)南無妙法蓮華経と唱える弟子・檀那の一身が、まさに妙法の宝塔であると仰せである。
このことは、さらに『御義口伝』「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」の『宝塔品』の下に、「宝塔とは我等が五輪・五大なり」「妙法の宝浄なれば我等が身体は清浄の宝塔なり」「法界の塔婆にして十法界即塔婆なり」「妙法蓮華の見なれば、十界の衆生・三千の群類、皆自身の塔婆を見るなり」 「かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり。妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生、一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(全集797ページ)と仰せのように、大聖人の証道観心において、宝塔と塔婆は同義であり、法界の一切衆生が、そのまま妙法蓮華経の宝塔・妙法蓮華経の塔婆であることをお示しである。ただし、それは『草木成仏口決(ぐけつ)』に、「法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」(全集1339ページ)と仰せのように、この宇宙法界の全体が、本来、本仏日蓮大聖人の御身そのものであることの意義からの御指南である。故に、個々の衆生においては、南無妙法蓮華経を信受しなければ、そこに成仏があり得ないことは当然である。すなわち、『上野殿後家尼御返事』に、「いきてをはしき時は生の仏。今は死の仏。生死ともに仏なり」(全集1504ページ)と仰せのように、生きているときの成仏が、本仏御図顕の宝塔たる御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるところにあることは当然である。
3 名無しくん
では、死の生命に対する回向は、どのようにすればよいのであろうか。これについて、大聖人は、『草木成仏口決』に、特に死者の成仏は塔婆の功徳にあることを、次のように仰せである。
「妙法とは有情の成仏なり。蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり。其の故は我等衆生死する時、塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(全集1338ページ)
すなわち、我々有情の一身の五大は、死後は宇宙法界の非情の中へ冥伏する。その冥伏した法界の非情とは、本来、無作三身の当体であるから、死後の生命の五大も、本来は仏身である。しかし、そこに宿業により、迷悟・染浄の相違が存する。故に、法界中の非情の草木をもって塔婆に建立し、開眼供養するところに、その功徳が法界冥伏の精霊に、ただちに回向されるのである。これが、塔婆供養の尊い意義であり、死の成仏たる草木成仏の本義であると、御指南されたのである。ただし、その塔婆の開眼供養とは、権教によってではなく、必ず仏教の根源の大法たる南無妙法蓮華経によらなければならないことは当然である。したがって、塔婆には、必ず御題目を書写しなくてはならないのである。このことを御教示された御書に、次の『中興入道御消息』がある。
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとばをたてて、其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたリて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都卒の内院に生れん。況や、かのそとばに髄喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ侯人類をや。過去の父母も彼のそとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つづみ(鼓)をうてばひびき(響)のあるがごとしとをぼしめし侯へ等云云。此れより後後の御そとばにも、法華経の題目を顕し給へ」(全集1334ページ)
4 名無しくん
このように、塔婆に南無妙法蓮華経の七字を認(したた)める功徳が、いかに大きいかを、わかりやすく御指南あそばされているのである(今日、我々僧侶は、塔婆に妙法蓮華経の五字を書写したてまつるが、その意義は理法としての妙法ではなく、事の一念三千たる南無妙法蓮華経である)。板塔婆はずっと後世のものである」などとの強言があるが、当御書にいわれる塔婆が、墓標などではないことは、「十三回忌のそとぱ(卒塔婆)」「これより後々の御そとば」等の仰せに明らかである。また、当御書では、南無妙法蓮華経を認めた塔婆を眼に見るとき、随喜するところの信心が大切であると仰せである。塔婆を建立して回向するときは、その功徳に感謝の念をもたなければならない。創価学会のように、塔婆の功徳を疑い、僧侶に対する怒リの気持ちで供養を行なっても、果たして先祖に真実の功徳が回向されようか。甚だ疑問といわねばならない。
大聖人が、塔婆に必ず南無妙法蓮華経と認めるべきことを御指南された所以は、題目が認められることによって、その塔婆が仏身の当体と顕われるからである。つまり、亡くなった人も、その妙法の仏の命の中に摂尽されて、本因成仏の大功徳を享受することができるのである。学会がいうところの、「板塔婆を死者の追善供養とすることが法華経に説かれている道理はまったくない」等という説は、法華経の文底の深義にのっとって、塔婆に南無妙法蓮華経と認めることにより、一切衆生が死の成仏の功徳を得ることを教えられた大聖人の大慈悲に背き、またきらに衆生の真実の成仏の道を塞ぐところの、無慈悲な言である。「板塔婆は日本だけの風習にすぎない」としている。しかし、日蓮正宗の正法にのっとった南無妙法蓮華経の塔婆の化儀は、人々の真実の成仏のため、正法広布に伴って、大いに世界に教え弘めなければならないのである。
5 名無しくん
次に、総本山第9世日有上人は、塔婆について、『化儀抄』に、「率都婆を立つる時は、大塔中にて十如是自我偶を読みて、さて彼の仏を立つる所にて又十如是自我偶を読むべし。是れ又事の一念三千の化儀を表するか」(富要1-66)
と仰せである。この文について、第66世日達上人は、次のように解説なされている。「卒塔婆とは、塔婆のことで、地水火風空の五輪の塔を表わす。大塔中とは、総本山歴代墓地の中央の宗祖大聖人並びに二祖及び三祖の大墓碑を指す。彼の仏を立つる所とは塔婆建立回向する、その墓をいう。亡者の追福作善のため塔婆を建てて回向する時は、塔婆を一度、大聖人の墓碑の所へ立てて、方便品・自我偶・唱題して、一度回向してから、その追善すべき亡者の墓へその塔婆を建立して、方便品・自我偶・唱題して、追善供養するのであリます。これが師弟相対した事の一念三千の化儀を表わしたことになるのであリます」(日達上人述『略解』)。これらの御指南は、本宗において、大聖人以来、塔婆を建立して功徳を回向することが、死者の成仏・追善のための化儀とされたことを証明するものである。また、同時に、本宗の塔婆供養とは、単に、題目を書写した塔婆を建立すればよいというものではない。あくまでも、本仏大聖人に対する師弟相対の信心にのっとった化儀であることを示されているのである。すなわち、塔婆供養に際して、大切なことは、一旦、全ての塔婆を、必ず大聖人(仏)の御墓の傍らに立てて供養し、その後に各自の墓に立てて供養するということである。この化儀は、今日、塔婆を各寺院の仏前の傍らに立てて回向することとして、厳然と伝えられている。これは、本仏大聖人を、どこまでも根本の大師匠と仰ぐ信心こそが、末法の衆生の成仏にとって不可欠だからである。すなわち、この化儀にのっとった塔婆回向によって、末法の亡き衆生は、御本仏大聖人と冥合し、唯一の大歓喜の成仏を享受することができるのである。本宗の塔婆供養には、かかる厳格な意義が存することを知らなくてはならないのである。同時に、その塔婆供養の甚深の意義を誹謗することは、宗祖大聖人、及び御歴代上人の御指南に背く大謗法であり、忘恩の所業となることを忘れてはならないのである
6 名無しくん
「塔婆は形式にすぎないのではありませんか」との質問に対し、「形式ではありません。仏法上の儀式であります、色心不二の成仏、草木成仏の深い原理からきているのであります。」(戸田城聖全集2-176)と述べ、塔婆供養とは、深い法義に基づいた、仏法上の重要な儀式であると指導されている。また、さらに池田名誉会長も、昭和59年2月28目、ブラジル一乗寺における物故者追善法要の際の挨拶の中で、塔婆供養の意義についてその功徳の大きいことを述べている。
これらの指導と、今回の塔婆供養軽視の誹謗とは、一体、どうしたら辻褄が合うのか。もっとも、無節操に変更して何の痛痒も感じないほど、学会の教学に対する態度はいい加減なものであったのかも知れない。
宗門僧侶が、塔婆回向で金儲けをしているとの非難の記事である。この塔婆金儲け論は、繰リ返し繰リ返し、執拗に展開し、口汚く批判している。特別財務などで一般会員かつのら多額の寄付を募っていると、下衆のかんぐりをして、死者の成仏の要儀である塔婆供養に対してまでも、金儲けの手段であると思ってしまうらしい。年に一度も使わない名誉会長専用施設や、世間でもとかく噂のある絵画疑惑などのために、特別財務・広布基金なる名目で多額の金を吸い上げられるより、自らの先祖に、真実の仏法の功徳を、確実に回向される塔婆を建立するほうが、どれだけ尊いか。『新池御書』の、「無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。」(全集1440)との御文をよくよく拝するべきである。
塔婆供養の功徳を知らない学会員に、その功徳の大きいことを教えた僧侶を、「食法餓鬼」と、邪宗の僧侶呼ばわりをしている。三宝破壊の謗法集団に堕した創価学会首脳幹部の言論におぞましさを感ずるのは、ひとり僧侶だけではなかろう