10 名無しくん
まず、死者の苦しみが遺族に影響するということに対して、「霊魂説に基づく『たたり信仰』であり、仏教の教義ではない」とする学会のいい分は、はたして正しいのであろうか。これについて、大聖人は、『孟蘭盆御書』に、「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり侯けるなり」(全集1430)と仰せである(7代日の子孫からすれば、先祖の悪業の苦の影響を受けることになるのである)。また、『忘持経事』には、 「我が頭は父母の頭・我が足は父母の足・我が十指は父母の十指・我が口は父母の口なり、譬えば種子と菓子と身と影との如し」(全集977)
と仰せであり、同様のことは目連尊者と青提女(しょうだいにょ)についても諸御書に仰せである。学会では、死者の苦しみが生者に影響するというのは、仏教の教義ではないとするが、そのような低級な考え方は、今時のインド仏教学の先生あたりの説をありがたがっている、権威好きな学会のいいそうなことである。法華経で説く一切衆生の生命の永遠ということが、霊魂として浮遊し、崇りをなすという意でないのは、当然である。存続するのは、あくまでも業をうける因果の当体としての生命の一念である。この一念とは、いわゆる霊魂のような個別の存在とは異なる。つまり、死後に無に帰するのではなく、厳然と因果の苦楽の業を受けていくところの、いわば生命の主体といわなければならない。大聖人は、常に生者の成仏が、父母等有縁の人々の成仏に通ずることを御指南あそばされているが、先に挙げた『孟蘭盆御書』に説かれるところは、逆に悪業の因縁も、有縁の人には影響があるというもので、法界一念三千の不思議な実相を説かれたものといえよう。今時の学者の理解をはるかに越えた、法界の生命の不可思議を説かれた、御本仏の御指南と拝すべきなのである。また『撰時抄』には、
「法然・流罪をあだみて悪霊となって、我並ぴに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入って、或は謀反ををこし、或は悪事をなして皆関東にほろぼされぬ」(全集274)