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昭和二十年六月十七日、大石寺の対面所の裏から出火した火炎は、大奥・大書院・六壺・大客殿など五百坪を焼き尽くした。

出火の原因は所化によるタバコの火の不始末だった。
この時、大奥の焼け跡から二階に泊まっていた日恭法主の焼死体が発見された。しかも、大奥の一階で従業員が食事をする食堂の一角にあった釜戸の中に下半身がはまりこんだまま焼け死んでいた。

おそらく二階の床が焼け落ち釜戸に落ちたと推定される。

日恭法主は巨体と病気によって逃げることが出来ず、生きながら焼かれたという地獄の苦悩をうけた。

その後、管長代務者の中島広政は同年九月の彼岸に集った大衆の前で日恭法主が焼死したのは不運が重なった結果であると述べたうえ『大聖人大慈の御誡』であると宗門を謗法まみれにした「罰」であることを認めている‥(超爆