47 名無しくん
◆日東上人日忠上人時代の朝夕勤行次第は一座であった
>これは『天拝集説』に引用された以下の御文を見ての主張である。
1●二十九世日東上人三十一世日忠上人印可ノ朝夕勤行次第東天ニ向ヒ奉リ方便寿量唱題
梵天帝釈日月明王四大天王諸天善神御報恩謝徳首題(『天拝集説』)
●天拝の事に付いては、(中略)日有上人も宗旨である化儀の根本であると言はれたやうに、大切な事であるから疎忽に議論を上下すべき事でないので、茲(ここ)に宗祖大聖人已来先聖の文献を引き奉りて、御聖意の在る所を御一同と共に伺ひ奉る事にして、最後に愚生の拝感の意を披瀝して見やふと思ふ、(同)
上記1●の史料を掲載された意図は「天拝の事に付いて」「宗祖大聖人已来先聖の文献を引き奉りて、御聖意の在る所を御一同と共に伺ひ奉る」ためである。あくまでも天拝の意義を拝することが目的であって勤行様式全体について考察するものではない。だから、天拝に関する記述だけを抜き取って引用されたまでのことであり、1●をもって「日東上人日忠上人時代の朝夕勤行次第は一座であった」などということはできない。
その証拠に大聖人の御書についても天拝に関するものしか引用されていない。日有上人や日鎮上人、日寛上人の項では勤行全般について引用されているが、これは引用部分自体が短かかったり、天拝部分と他の部分との分離が容易ではなかったためであろう。
常識的に考えても、勤行で本尊供養をせずに諸天供養(それも東天に向かって)だけで済ませるなど、ありえないではないか(爆笑
48 名無しくん
日有上人時代は勤行を1日に3回していたこと、日鎮上人は四座だったこと、日寛上人は六座していたこと、日東上人日忠上人時代の朝夕勤行次第は一座であったことを挙げ、結論として「五座を延べて六座となし七座となすも、伸縮正略は自在なるべき」
●宗門の勤行式の中で、天拝を初に別座に勤むる事について、近年間々疑惑を懐たく人があるとの事である、富士門流を汲める他の本山内(今の本門宗)にては、既に三十年前に天拝廃止の声あるのみでなく、早や実行して(廃止)いる人もありと聞くが、宗門には勝手に廃止せる人はあるまいと思ふが天拝廃止の考へある人は、願くは愚納に其趣意を示されたい(『天拝集説』)
49 名無しくん
日亨上人は天拝について「勝手に廃止せる人はあるまい」と仰せである。●各方の御帰依の明師に就いて御指南を受けられたい(同)
「伸縮正略は自在」といっても、誰でも勝手に化儀を改変してよい、という意味ではないことは明らか。これを判断される方とは一往は「各方の御帰依の明師」であり、再往は大聖人以来の血脈相承を受けられた御法主上人なのです
●「手続」とは経次又は順序の義なり・仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず、(中略)弟子は師匠を尊敬して奉上すること・三世十万の通軌なれば・釈尊は釈葉仏に宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師は永師に霑師は誠師に師侍し・もたげ給ふ、師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、師弟の道は神聖ならざるべからず(中略)三世の諸仏も高祖も開山も三祖も道師も行師も・各々其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ
●師弟相対の事、有師丁寧反復是を述べらる。(中略)師弟不用の高慢より生して、師弟相対を無視する事は大いに信行に害あるものと知るべし
◆二品読誦の大体は宗祖開山一準の化儀であるが、三座五座の分拝又は十如是長行の区別等の細目にに至っては、此文の案し定テと云はるるに依るときは有師の考案から成つたものと考えるべき
●五座を延べて六座となし七座となすも、伸縮正略は自在なるべきであるが、式文の中にも信念の中にも全体を具備して居るべき事は無論である、縮と略とは欠と不足との意では決してないのである。『天拝集説』
「伸縮正略は自在」とは、学会のように誰でも勝手に五座三座を一座にしてよい、という意味ではない
●有師を中興開山とするに多義あるが、中に化儀の大成即ち宗祖開山時代の自然の至来りに意義を与へ、細点を付したのは全く有師の御苦心である、又此文の当宗宗旨タル勤と云ふは、勤行は化儀の中の第一肝要の行であつて宗門の中の宗旨にも当るものとの意味である。日有上人が「化儀の大成」をされたと仰せである。「考案」といっても、「宗祖開山時代の自然の至来りに意義を与へ、細点を付した」のであって、その根本義はまったく大聖人が御定めになったとおりなのである。
50 名無しくん
●日有上人も宗旨である化儀の根本であると言はれたやうに、大切な事である『天拝集説』
●何れの御文も其れに意義ある事ながら、別して我等の眼には、有師の御説なる筑前阿闍梨の聞書の後項、「日蓮自行の妙法乃至日天日蓮と得意」と云ふ点が、早速に拝天の根本義と感拝せらるゝ化儀には時機に応じて変化する部分とそうでない部分がある。変化すべきでない部分とは化儀の「根本義」である。
●六念の事 念仏念法念僧念戒念施念天なり。 御義口伝に云はく、念仏とは唯我一人の導師なり(三座・大聖人)、念法とは滅後は題目の五字なり(二座)、念僧とは末法にては凡夫僧なり(三座・日興上人以下御歴代上人)、念戒とは是名持戒なり(四座)、念施とは一切衆生に題目を授与するなり(五座)、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之の意なり(初座)。末法当今の行者の上なり。之を思ふべきなり云云『御義口伝』
このうち「念仏」「念法」(本門戒壇の大御本尊)「念僧」は、当時の弟子檀那には、正しい理解が困難であった。しかし、正しい法門は唯授一人の相承によって日興上人に伝えられた。この『御義口伝』もその1つである。大聖人御在世に「五座三座」の御指南がなかったとしても、相伝によって「五座三座」の化儀の基となる御指南は日興上人以下歴代上人に伝えられていたのである。●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし
●聞いて能(よ)く之れを信ぜよ、是れ憶度(おくたく)に非ず。師の曰く「本因初住(ほんにんしょじゅう)の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり」
「師の曰く」とあるように『寿量品』の長行を読誦することや、その理由は大聖人以来の師弟の相伝に基づくのである。大聖人以来の正統なる師弟の流れからはずれた新興教団・創価学会が、権力や財力を駆使しても得られないのが相伝の内容である。裏返せば、創価学会は相伝がない故に"御書根本""大聖人直結"と主張せざるを得なくなったのである。
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●但我が富山のみ蓮祖所立の門流なり。故に開山已来化儀化法、四百余年全く蓮師の如し(第26世日寛上人『当流行事抄』)
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。
日蓮正宗富士大石寺の勤行の形は、他ならぬ宗祖日蓮大聖人がお立てになり、それを日興上人以来の御歴代が、師弟相対の信心をもってそのまま受け継ぎ、遵守してこられたのである。まさに、「相伝に有らざれば知り難し」【化儀即化法】
●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し
大聖人の下種仏法においては、化法とは下種独一本門の法体とそれに基づく教義・教学であり、化儀とは下種仏法の執行、表明を意味する。