69 班◆KfRH
明治以後の宗門では、法主の座を巡る紛争の嵐が吹き荒れる(笑!

大正十二年 八月十八日
五十七世日正法主が死去した。
その時、日正法主は法を譲るべき大学頭の五十八世、日柱へ相承できないでいたため、在家信徒(中光達・牧野梅太郎)に相承を預け二人が大阪の蓮華寺へ行って日柱に相承を伝えた!
要するに【血脈相承とはこの程度のもの】だ。

‥なぜそうなったかというと、当時、日柱法主の就任を妨げようとした阿部法運(日顕の実父)が日正法主に近づけないように手回ししていた。

日柱の命令といって排斥したり、大学頭職の辞職を迫ったりした。
しかし日正の意志によって日柱が就任したため、阿部法運はその追い落としをはかる。

大正十四年 十一月十八日大石寺で宗会が開かれ日柱法主の不信任を決議して、辞職勧告をした。
宗会議員十一人のほか評議員などが密約を交わし「三宝に誓って」と法主を追い落とした。

その理由に、その四か月前に宗務院総務だった阿部法運が対外的に大きなミスをして日柱法主から総務の職を外されたうえ能化の僧階から降格させられ、それを怨んだのが、このクーデターの原因だ。

阿部法運ひきいるクーデター派は日柱法主に辞表を出させ、堀日亨上人を次の法主として文部省に届けたが日柱側に大石寺の檀家総代や東京などの檀信徒がつき宗会のクーデターに訴え出た。

檀信徒たちは反日柱派の僧侶に対して、一切の供養を禁止すると決めて、信徒が僧侶を「破門」にして宗内が真っ二つになり抗争がはじまった(超爆

その時、宗内監督に権力を握っていた文部省の宗教局は調停が不可能だと判断し選挙によって管長候補を選出するよう指示した。

そして大正十五年 二月十七日に開票した結果、堀日亨上人が当選し、日柱法主の得票はわずか三票(爆

怒った日柱法主は「自分以外に誰が選ばれても相承しない」と宣言したが、効果はなく、また日柱法主に辞表を書かせたのは脅迫によるものだった(爆!

で、警察(*_*)が介入して僧侶たちが取り調べを受けて、やっと三月八日に日柱法主が日亨上人に相承したことにして、法主の座を巡る争いは終わった(爆!

こんなことは、まだまだ、ほんの一部!ど・こ・に・日蓮大聖人、日興上人の御精神・血脈がある??
この話に嘘があるなら訴えでるがいい(超爆!ハーハッハッハッ。。〇