7 メロン大好き『糖尿病池田強姦作』
フライング

<僧宝=僧侶>
吾が日興上人、嫡々写瓶の御弟子なる事分明也。故に末法下種の僧宝と仰ぐ也。爾来、日目・日道代々咸く是れ僧宝也、及び門流の大衆亦爾也云云『三宝抄』
[大衆]だいしゅ=一般の僧。衆徒。(三省堂『例解古語辞典』第3版)[衆徒]しゅと=(1)奈良・京都の諸大寺の僧侶たち。平安末期以後は僧兵をさす。衆僧。僧徒。(2)特に、中世、奈良興福寺で、武装して寺院警護にあたった下級僧侶。三省堂『大辞林』第2版)

貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬に類し威儀は猿猴ににて候へども、仰ぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば蛇の珠をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋をよぢ鶴は羽を恃みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父・祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たから(宝)は・もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし『盂蘭盆御書』
「無戒」「無智」であっても「法華経」を「信ずる」「僧」は「いみじき御たから(宝)」だと仰せである。御手紙を頂いた女性は在家信徒であるが、その人から見れば一般僧侶は「法華経の行者」であり「宝」(僧宝)なのである。

当宗出家の当躰即仏法僧三宝なるが故、又本理を以て法と為し、智水慧を以て仏と為し、慈悲を以て僧と為る故に、僧宝を供養すれば自ら仏界の供養となる義なるべし(第31世日因上人『有師物語聴聞抄佳跡上』
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言いたい事が予想ついたからフライング

【御書にみる僧宝】
4●皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が・中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず・自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、始より終りまで弥信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、『新池御書』
5●何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし。『新池御書』
6●願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申すは是なり『新池御書』
7●貴僧・高僧には依るべからず、賎き者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし是れ経文なり(『新池御書』
8●末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。『新池御書』
9●此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし、『新池御書』4●〜8●の「僧」が大聖人に限定されないことは、同じ御手紙の「此の僧」(9●)が大聖人の命によって派遣された弟子であることから明らか。また「三宝を供養」(6●)「僧をも恭敬せず供養をもなさず」(4●)とあるように、供養の対象は三宝であり、その三宝(とくに僧宝)に大聖人の弟子(御僧侶)が含まれるのである。
●僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪(たきぎ)なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず『四恩抄』
9 メロン大好き『糖尿病池田強姦作』
<僧宝=弟子檀那>
●末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思境地冥合事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする。(中略)広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝である(『日蓮正宗要義』)

『当流行事抄』は「随一」の僧宝を挙げられたものであり、日目上人以下が僧宝であることを否定したものではない。「随一」であって「唯一」ではないのである。
僧宝の意義に、総別の二義がある。別しては、大聖人より直授相承せられた日興上人にまします。故に、日興上人を僧宝の随一と仰ぐのである。総じては、唯授一人の血脈相承をもって、大聖人の法体を継承せられた御歴代上人が、全て僧宝にましますのである。したがって、時の御法主上人が、その時代における僧宝の中心なのである。なお、以上の総別の二義を合して別とした場合、御法主上人の法類である一般僧侶は、総じてこの僧宝の意義を顕現する立場に存するのである。また、さらに総じていうならば、日蓮正宗の信仰をする信徒にも僧宝の意義は存するといえる。しかし、『曽谷殿御返事』の、
●総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輸廻生死のもといたらん(『曽谷殿御返事』全集1055頁)との御指南、また日寛上人の『当家三衣抄』の、●行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に地獄に堕つべし(第26世日寛上人『当家三衣抄』との御指南のごとく、総別をわきまえず、その次第を越えたならば、かえって成仏の妨げとなり、地獄に堕ちることにもつながるのである。『化儀抄』の「僧俗の礼儀有るべきか」との御文の真意は、このことを指すのである。