72 名無しくん
あるいは一時的な所作であり「常の御所作」ではない<大聖人以来の化儀>
【化儀と相伝】
●有師を中興開山とするに多義あるが、中に化儀の大成即ち宗祖開山時代の自然の至来りに意義を与へ、細点を付したのは全く有師の御苦心である、又此文の当宗宗旨タル勤と云ふは、勤行は化儀の中の第一肝要の行であつて宗門の中の宗旨にも当るものとの意味である。第9世日有上人は勤行において寿量品長行を御読みになっていた。日亨上人は、その日有上人が「化儀の大成」をされたと仰せである。「大成」といっても、「宗祖開山時代の自然の至来りに意義を与へ、細点を付した」のであって、その根本義はまったく大聖人が御定めになったとおりなのである。
●但我が富山のみ蓮祖所立の門流なり。故に開山已来化儀化法、四百余年全く蓮師の如し
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。
日蓮正宗富士大石寺の勤行の形は、他ならぬ宗祖日蓮大聖人がお立てになり、それを日興上人以来の御歴代が、師弟相対の信心をもってそのまま受け継ぎ、遵守してこられたのである。まさに、「相伝に有らざれば知り難し」で、御書の面(おもて)しか見ることのできない不相伝家には、知り難き伝承といえよう。
73 名無しくん
【時機に応じた御指南】・『寿量品』長行の代わりに自我偈でもよしとする時代もあったようであるが、あくまでも長行読誦が基本であり、本山では長行が読誦されてきた。これは、上記存略の意義に通じると思われる
・一部信徒に対しては、唱題だけでもよいという御指南があったが、あくまでも止むを得ない場合の例外的措置であり、基本はあくまでも五座三座であると示されている

・化儀には変化があるが、化儀即化法であることに変化はない。化法は、唯授一人の相伝によって代々の御法主が掌握されているのであるから、化儀を改変するにしても時の御法主がお決めになることである。我々は、御法主上人がお決めになられた化儀に随順するところ、血脈が通うのである。
●五座を延べて六座となし七座となすも、伸縮正略は自在なるべきであるが、式文の中にも信念の中にも全体を具備して居るべき事は無論である、縮と略とは欠と不足との意では決してないのである。
74 名無しくん
「伸縮正略は自在」といっても、誰でも勝手に化儀を改変してよい、という意味ではないことは明らか。これを判断される方とは一往は「各方の御帰依の明師」であり、再往は大聖人以来の血脈相承を受けられた御法主上人なのです。
●「手続」とは経次又は順序の義なり・仏に通達する道程は必ず師匠に由らざるを得ず・仏の法を受取るには是非とも師範の手を経ざるを得ず、(中略)弟子は師匠を尊
>敬して奉上すること・三世十万の通軌なれば・釈尊は釈葉仏に宗祖は釈尊に開山は宗祖に寛師は永師に霑師は誠師に師侍し・もたげ給ふ、師は針・弟子は糸の如く・法水相承血脈相伝等悉く師に依つて行はる、師弟の道は神聖ならざるべからず(中略)三世の諸仏も高祖も開山も三祖も道師も行師も・各々其師範より法水を受けて信心を獲得決定し給ふ>
●師弟相対の事、有師丁寧反復是を述べらる。(中略)師弟不用の高慢より生して、師弟相対を無視する事は大いに信行に害あるものと知るべし
"御書根本"というのなら「常の御所作」(『月水御書』全集1201頁)には「方便品の長行と寿量品の長行」(同)を読誦せよ!
東天に向かっての諸天供養を行わないのである。組織として大聖人以来の化儀を破壊したことは明白である。
75 名無しくん
「伸縮正略は自在」とは、学会のように誰でも勝手に五座三座を一座にしてよい、という意味ではない。
【化儀と相伝】
●総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし。化儀の本源は大聖人の所作振る舞いだといえる。しかしそれらは、御書に全てが表れているとはいえない。何故なら、御在世当時は宗旨の草創期であり、方便を交えた御指南が多いからである。特に、日蓮本仏義や、大御本尊即末法の要法、唯授一人の血脈などは、ほとんど明示されていないといってよい。しかし、「五座三座」の勤行は、これら大聖人の仏法の根幹部分を前提として決められた化儀なのである。そうであれば、このような勤行様式が大聖人の時代に徹底されていたはずもなく、従って御書に明示されている道理もない。しかし、だからといって、それが大聖人の化儀に適っていないとはいえないのである。
●六念の事 念仏念法念僧念戒念施念天なり。 御義口伝に云はく、念仏とは唯我一人の導師なり(三座・大聖人)、念法とは滅後は題目の五字なり(二座)、念僧とは末法にては凡夫僧なり(三座・日興上人以下御歴代上人)、念戒とは是名持戒なり(四座)、念施とは一切衆生に題目を授与するなり(五座)、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之の意なり(初座)。末法当今の行者の上なり。之を思ふべきなり云云。五座の意義の原点と拝すべき御指南。このうち「念仏」「念法」(本門戒壇の大御本尊)「念僧」は、当時の弟子檀那には、正しい理解が困難であった。しかし、正しい法門は唯授一人の相承によって日興上人に伝えられた。この『御義口伝』もその1つである。大聖人御在世に「五座三座」の御指南がなかったとしても、相伝によって「五座三座」の化儀の基となる御指南は日興上人以下歴代上人に伝えられていたのである。
●「義理」「化儀」の簡別は義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし。
76 名無しくん
●聞いて能(よ)く之れを信ぜよ、是れ憶度(おくたく)に非ず。師の曰く「本因初住(ほんにんしょじゅう)の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり」「師の曰く」とあるように『寿量品』の長行を読誦することや、その理由は大聖人以来の師弟の相伝に基づくのである。大聖人以来の正統なる師弟の流れからはずれた創価が、権力や財力を駆使しても得られないのが相伝の内容である。裏返せば、創価学会は相伝がない故に"御書根本""大聖人直結"と主張せざるを得なくなったのである。
●但我が富山のみ蓮祖所立の門流なり。故に開山已来化儀化法、四百余年全く蓮師の如し
●宗祖云く「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云々。「塔中及び蓮・興・目」等云々。日蓮正宗富士大石寺の勤行の形は、他ならぬ宗祖日蓮大聖人がお立てになり、それを日興上人以来の御歴代が、師弟相対の信心をもってそのまま受け継ぎ、遵守して