82 戦争容認=殺人=創価学会
再掲載
日蓮大聖人からの法水を護りぬかれた総本山六十二世日恭上人】
人間革命 第一巻 二五一頁〜二五三頁(抜粋)著者 池田大作
焼けただれた官長室には、第六十二世日恭猊下が、おいたわしくも、身を火焔でみずから焼き、端座したままの姿であられたのである。
しかも、正装であり、袈裟をかけたお姿である。そして、一閻浮提総与の大御本尊を御安置した、御宝蔵のほうにむかっていた。
猊下はお逃げになることは、いくらでもできたのである。その証拠に、数百人の罹災者のなかで、負傷者は一人もなかった。
客殿の焼亡とともに、なにゆえ、わが身をみずからお焼きになったのか。凡庸の推察は、さしひかえなければならない。しかし、側近の老僧には、深く思いあたることがあった。 一人の老僧は、前日、の猊下のお言葉を思い出した。
戦況の、日に日に非なることに話がおよんだ時、猊下は、ひとりごとでも言われるように、側近の老僧に語った。
「国が亡びるか、否かの時になった。私も、いつ倒れるかわからない」
さらに、その数日前、もう一人の老僧にも、猊下は、異常な御覚悟を語っていた。
「・・・私に、万一のことがあろうと、御相承のことは、お二人の御隠尊猊下(堀日亨上人・水谷日隆上人)がいらっしゃるから、なにも心配はない」さらに、これよりまえ、猊下は文部省を訪れた。身延との合同問題が、国家権力の強圧のもとに、実行に移されるばかりになっていた。
猊下は、単身、当局にむかって「合同、不承知」を、厳然と宣言して帰られたのである。 日蓮大聖人の、正法正義を継承する本宗は、断じて、邪法邪義たる身延をはじめ、いかなる宗とも、絶対に合同はせぬ――と。その毅然たる態度、迫力に、役人たちは驚いた。なおも猊下は、たとえいま、頸を切られてここに死すとも合同せず、と叫ばれて、ここに正宗の法水を護りぬかれて帰られた。じつに、日蓮大聖人の、幕府権力に対決した時のお姿が、そのまま拝されるのである。