95 名無しくん
そもそも、勤行を含めた本宗の化儀は、御歴代上人の権能に収まる事柄であり、時の御法主上人は、正法正義に照らし、時に応じて、それを裁定なさるのである。
日寛上人は、方便品を読誦する意義は、その経文の中に「唯仏与仏乃能究尽」の文と、一念三千の出処となる「十如是」が含まれているところにある、と示され、「十如の文は既(すで)に是れ一念三千の出処なり。故に但之れを誦すれば其の義則ち足んぬ」(六巻抄169頁)と仰せになっている。一方、寿量品には、「一念三千の法門は但法華経本門寿量品の文の底にしづめたり」と仰せのごとく、事の一念三千・三大秘法の妙法蓮と仰せられ、「我本行菩薩道 所成壽命 今猶未盡復倍上数」の本因初住の文底に秘沈されている、と明かされている。しかして、この「我本行菩薩道」の本因初住の文は、自我偈ではなく寿量品の長行中にあるのである。となれば、事の一念三千の御当体たる大御本尊を賛嘆(さんたん)申し上げるのに、方便品の十如是までと寿量品の長行は、法義上、必要最低限な助行であること、明々白々ではないか。
すなわち、現時における日蓮正宗の五座三座の勤行は、制定当時、将来にわたる様々な状況をおもんぱかった上で、勤行としての必要な要件を満たす形で定められたものであることが理解できよう。ところが創価学会は、各国SGIの要請≠ニやらを理由に、五座三座を廃止してしまったばかりか、事の一念三千の御本尊を秘沈している寿量品の長行まで、削り捨ててしまったのである。
日蓮大聖人は、「此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。(中略)されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給ふを破し奉るなり。唯相構へ相構へて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし」