1 山田洋行

イジは負け組

スロットで借金地獄
女房に捨てられ残ったのは借金のみの種無し男
92 笑わせるな
>>87
「便宜的」
「やむなく」


権力への迎合という。
93 『宗報』(第19号:昭和23年5月号)掲載
「日本敗戦は正に我が宗門の敗戦であつた。今を去る昭和廿年大客殿大書院六壷の焼失は、我等僧俗の懈怠誘法罪たる事は遺憾ながら諸賢と共に確認せざるを得ないのである。
 敗戰常時を今茲に回顧して見れば、宗祖の御訓戒に悉く背き、國家諫暁の重責を果したとは言へない。
 軍の農耕隊の一團は客殿書院を占領し、我が清淨なる大道場を踏みちらし、殊に焼失の前日悪鬼の住家たる大麻の社殿を書院に祭りこんだ事は、農耕隊錬成團の仕業とは云へ、開山日興上人以来未だ見ざる一大汚点である。
 今茲に述べる迄もなく『謗法を見て呵折し駈遺せずんば是佛法の怨なるべし』の宗祖の御訓戒は僧俗一同の身骨に徹してゐると思ふ『臆病にては叶ふべからず』の御訓戒を、正法護持にも折伏にも無視するやうな事になれば信心の燒失、懈怠謗法となりて客殿書院の大伽藍も亦、一朝の夢として消える事を覺悟しなければならないのである。
94 日柱法主おろしの顛末記事
富士大石寺の法主(管長)の座をめぐる争いは、脱することのできない袋小路に入った。大石寺始まって以来、最悪の事態だ。
 だが解決の日は、意外にも早く来た。
 三月六日午後一時五十三分の富士駅着の列車で、日柱上人、夫人、持僧と正法擁護会の者二名が到着。一行は自動車で大宮町(富士宮市)橋本館へ。
 そこで大石寺檀家総代三名と合流し、打ち合わせを始めた。夜には東京の正法擁護会の者二名が新たに加わった。打ち合わせは、深夜まで続いた。
95 日柱法主おろしの顛末記事
翌三月七日、日柱上人らは二台の自動車に分乗して、大石寺に登山。登山の目的は、日亨上人に相承をおこなうことであった。
 三月七日午前七時より総本山大石寺客殿において相承の式を挙行、午後一時に終了。午後は酒宴となった。三月八日午前零時より一時にかけて、血脈相承が日柱上人と日亨上人のあいだで執りおこなわれた。翌月の四月十四日、十五日には、日亨上人の代替法要が催された。
 これをもって、日蓮正宗の法主の座をめぐる争いは終了した。
96 日柱法主おろしの顛末記事
抗争劇は実にあっけない幕切れとなったのだが、日柱上人側が強硬な態度から、一挙に柔軟な態度に転じた背景には、文部省の下村宗教局長の調停があった。
 調停がおこなわれたのは、二月の終わりか三月の初めと思われる。
 大方の予想に反して、ただ一回の調停で和解が成立したという。
 その場で五カ条の合意を見た。残念ながら、文部省の誰が調停の場に臨んだのかは判然としない。だが、誰が代表で調停の場に出て合意したにしろ、それに基づき両派の睨み合いが解消されたことはたしかだ。
97 日柱法主おろしの顛末記事
ただし五カ条の合意内容は、当時、複数の新聞で報じられている。
 一、宗體の維持に就ては前法主派、法主互いに協力する事
 二、新法主は山中及び宗門を改正する事
 三、宗門の重大事に就て新法主前法主相談する事
 四、新法主は宗門の雑事には容喙せぬこと
 五、新法主は僧俗の信行を増進すること
 この五項目以外にも、日柱上人の「隠尊料」が問題にされた。その内容については、正法擁護会のメンバーである田辺政次郎が、日亨上人登座後の同年九月、『異体同心の檄文』という文書の中で一部明らかにしている。
 田辺は、日蓮正宗側が日柱上人に約した「隠尊料」を履行しないということで、合意内容を暴露したのである。
 その中で田辺は、以下のことを明らかにしている。
98 日柱法主おろしの顛末記事
「然して日柱上人隠尊料は(現金三千円之れは『正鏡』にも記載あり)白米七十俵本山より供養すべき内約を大石寺檀徒惣代人の意見として相談せし事、然れども此事は同三月八日御相承の後ち再び改め減額せられた即ち白米廿五俵現金壱千円となりし是れも約束だけで実行はせぬ事に聞及びたり」(筆者注  『異体同心の檄文』一部抜粋、文中『正鏡』とあるのは反日柱上人側の出した文書)
 驚くべき事実である。
99 日柱法主おろしの顛末記事
血脈相承を円滑におこない御隠尊するにあたり、「隠尊料」が払われる約束になっていたと暴露しているのだ。しかもそれが相承を支障なくおこなう条件として、相承の前後に話されていたことがわかるのである。
100 ジョンマクレー◆QEaW
事実はこうよ(爆)