1 名無しくん

創価学会に告ぐ2

前スレでは私の質問に質問で返す愚挙に及んだが、私からの質問「創価本尊に允可があるか」を答えて頂きたい。その後に出された質問については調べて答える故、私が先に質問した答えを答えて頂く。
92 六銭文
12月8日「日米開戦の日」
宗門は軍事献金等 により、嶋田海軍大臣から「感状」を受けた。
93 名無しくん
T子は女子部時代、池田と特別の仲だった。池田の泊まる先々で池田の脇腹をさすったり、スプーンでメロンを食べさせたりといったことが、側近によって何十回となく目撃されている。
S氏と結婚後も、池田と特別な関係を続けたのかどうか分からない。しかし結婚前は、デパートに池田夫人気取りで豪華な買い物にでかけたりしている。昭和四十年頃は、特に本部の女子職員の間で池田との特別な関係が取り沙汰され、羨ましがられたものである。渡部通子が月刊ペン裁判で池田の女性スキャンダルを否定する証人として出廷したのに対して、T子は出廷を断わったことで学会内では有名になった。
当時、会長の北条浩は「T子は証人になりたがらない。T子は弱いんだ」と周囲に喋った。これは、暗に北条がT子と池田との関係を認めたことになる。T子は当時、婦人部の会合では「私は(池田との関係は)ありません。あったら、ありがたいんですけど」と発言している。
事実を隠蔽するつもりが、逆に本心をさらけ出した格好だ。T子は現在、藤原行
>正の妻の郁子を、婦人部の会合でメッタクソに罵倒し続ける役目を負っている。
悪口をいわせるのは、明らかに池田の差し金である。そのご褒美か、T子は最近、全国総合婦人部長に返り咲きを果たした。また、T子が郁子を罵倒すれぱするほど、夫の方も公明党で重用される。
94 名無しくん
旧姓をSという。S女子部長といった方が、学会内ではわかりやすい。現在は結婚し、姓が変わった。学会活動の方は相変わらずで、世田谷区の総含婦人部長をしている。凡人のSが女子部長になれたのは、本人に力量があったからではなく、池田の寵愛を受けた女だったからにすぎない。
池田はよく、「由美子はバカだ、バカだ」と周囲に喋った。笠貫は、女子部時
代、第一庶務室に長く務めていた。いつも池田のそばにいて、池田がいる部屋の隣で、手を前に付き、半かがみになって待機する。
池田が「オイ!」と呼んだり、手を叩くだけで、直ちに池田の許に飛んでいく。その素早さが、池田に評価され、バカといわれても女子部長になれた所以である。笠貫は、池田が目を真っ赤にしながら「目がいたい、目がいたい」というと、傍らに坐って本を読み聞かせたりした。読むのをつっかえると、ここでもまた「バカ」とどやされた。
それでも、池田先生の側にいることをこよなく好んだ笠貫は、自分を罵る池田の態度などいっこうに気にしなかった。
笠貫の女子部での活動歴は浅い。それが、たちまちにして全国女子部長になった。抜擢の背景には、池田に対する笠貫の思い入れがあるのはもちろんだが、池田から見れば、笠貫の「尽くしに尽くすタイプ」を側に置いておきたかったのである。やがて、笠貫は池田の子を身寵った。
その子の中絶を手配したのが、横浜日赤で外科部長をしている、学会ドクター部幹部の森田修平だった。
このことについては、藤原行正が、「何代か前の女子部長」という匿名の表現で、中絶の件を暴露した。池田は、それに対して過剰反応を示した。
池田夫人・香峯子をして、笠貫の妊娠を否定するアリバイ作りに加担させたのである。
池田夫人から婦人部の最高幹部が直接指導を受ける記事が、『聖教新聞』紙上に掲載された。このようなことは、普通では、まずありえない珍事である。 
今年2月11日の『聖教新聞』7面には、次のようぬな笠貫の記事が載った。「優しい妻に 強い母に力ある婦人に_これは婦人部進出にあたり、先生の奥様からいただいた指針です。」池田は、女性スキャンダルのカムフラージュに夫人まで使って恥じるところがない。
95 名無しくん
Sさんは年に二、三度は必ず日本に出向き、池田と会う。帰国後、その特別な関係を自慢し、会合でノロケて見せる。それによって「Sさんは池田先生に近い方だ」との評判を獲得し、組織を私物化する。
いってみれば、ミニ池田大作のブラジル版なのである。(中略)Sさんが日本から帰ってくると「先生の招待で日本へ行ってきました」と池田との特別な関係を自慢し、派手な洋服、飾り物を身にまとい、得意顔。側近に「○○で一緒に過ごした」「夜中ふと目を覚ましたら、先生が横に寝ていた」「先生と手をつないで歩いた」「もったいないので、先生の手を懐ろに入れてあげた」といった類の低級なノロケ話をして悦に入ったりもする。
だから現地では「Sさんは池田さんの妾だ」といわれる。
そして池田さんの妾(?)が現地の学会組織を牛耳っているのだから、トラブルが続発するのは当然だ。(中略)
また、かつてNSBには「Sにプレゼントする会」というのがあった。各支部が持ち回りで担当した。これも、長谷川重夫副会長によって推進された「池田先生直結運動」と同じものである。
96 名無しくん
自分の手の付いた女性を他の男に分け与える。考えただけでもおぞましい行為が、今なお信仰指導の名の下に行なわれる。
かつて、原島嵩、山崎正友らによって証言・暴露された、池田と取り巻きの側近女性の異常な関係。それらの女性の男性幹部へのお下げ渡し事実。Hさんという一学会婦人部幹部の二回目の結婚にまつわる騒動は、それらの事実をまた一つ裏付けることになつ
た。
Hさんは昭和31年の入信。43年に34歳で本部職員となった。婦人部から学会本部に採用されるのは、異例中の異例。池田の大抜擢があったのは確かだ。Hさんには二回の結婚歴がある。その二回目の結婚でHさんは、新婚旅行から帰った翌日に早くも離縁された。いったい、何が起きたのか。
Hさんと夫のAの結婚は五十五年、Aが五十七歳、Hさんが五十歳の時だった。Aが後に遇刊誌で告白したところによれば、結婚披露宴で挨拶をした多田省吾の祝辞が、じつに珍妙だったという。
「池田先生が誰それと関係があるとか、いろいろ書かれていますが、相手の女性にはそれぞれ主人がいる。そんなことはあり得ませんよ。いいかげんな週刊誌が多いんです。」
Aは、結婚披露宴のめでたい席で、どうしてそんなはしたないことをいうのかと、疑問に思った。
騒ぎが起こったのは、一週間ほどの新婚旅行を済ませた翌日だった。妻が「池田先生に挨拶に行こう」といい出したのだ
97 名無しくん
続き
。かつて第一庶務室に勤務した経験の
あるHさんは、池田が自宅にいることをしっかり確認し「今行けば、会ってくださるかもしれない」と池田家に夫を連れていった。
が、玄関口に現われた池田夫人は「主人は寝巻姿なので出られない」と、冷たくいい放ってとドアを閉ざした。
そのまま自宅に戻ったAが「家にいるのに出てこないなんておかしいじゃないか」というと、Hさんはいきなり怒りだした。「池田先生のことを悪くいうなんて許せない」と叫びながら、手当たり次第に物を投げつける、ヒステリー状態に陥った。
Aはこれにびっくり。こんな女とではとても一緒に暮らせないと、すぐ離婚を決意、実行に移した。これだけなら、確かに異常ではあるが、どこにでもある、単なる夫婦喧嘩に過ぎないかもしれない。問題は、Hさんが出ていった後しばらくしてからAに届いた、一枚の手紙だ。中身は便箋一枚の簡単なもの。週刊誌の切り抜きのような文字が貼られてあった。「(池田大作と関係のあった女性)七、八ニンノナカニアナタノオクサン
モイマス 五月号ノシュウカンシンチョウニ、貞子ト名入リデノッテイマシタダイサクノツカイフルシヲイタダイタノデスカ」
いったい、誰がこの手紙を出したのか、定かではない。しかし、池田がこの夫掃の新婚旅行直後の挨拶に出てこなかったのは、自分のお下げ渡し女をもらった亭主と顔を合わせる気になれなかったのではないか、とAは後に述懐している。Aは今、三人目の女性に恵まれ、平穏な日々を送っている。池田のお手つき女を黙ってもらい、心ならずも池田に平身低頭してみせる学会幹部のその後の苦悩と比べ、Aの悠々自適な生活は対照的だ。
98 名無しくん
M子は第一庶務出身。やはり、池田とのスキャンダルがウワサにのぽる。上田雅一副会長もかつて、友人に「M子は先生のお手つき女」と告白したことがある。(中略)資は、かなりのエリートコースを歩んでいる。
だが、これも髪結い亭主の例を免れない。M子は結婚後も、第一庶務付きだった。あまり表面には出てこないが、「池田先生に近い女性」ということだけで、学会内では知る人ぞ知る特別な存在である。吉田章子、上田京子、そして松岡M子。言論問題が表面化し、池田が世間から隠れるようにしていた時、こういった女性たちはいつも池田のそばに侍っていた。
99 名無しくん
結婚の時には池田に祝福され、結婚後には「子供を作るな」と妙な注文をつけられた学会幹部夫婦がこの人たち。(中略)K子の入信は比較的新しく昭和三十九年。四十五年にはもう女子部長になっているのだから、これは例によって何かあるハズと勘ぐられた。
やはり、この女性も池田の寵愛を受けていたのである。結婚当時、Kは一日も早く子供を欲しがった。夫婦にとって、ごく自然な願いである。が、そんなKを池田は叱りつけた。「子供をつくるなんて、甘いことだ。女房をもっと本部に近づけなければダメだ。自分の女房と思ったら間違いだ。本部に差し上げる気持ちがなければいかん」。(中略)結婚は池田の意向一つで左右され、しかも「女房を差し出せ」といい出す始末だ。
100 六銭文
法師の皮を著たる畜生の有名な“カマシ”説法。
「信心がいやになろうが、何しようが、そんなことは関係ないんだ!そんなこと、そんなくだらないことを言っては、ダメだってことを、頭から少しかましてやればいいんだっ、そんな者に対しては」
平成三年八月二十九日全国教師指導会