
セレーネのためいき
そうやってようやく受け入れた仏教ですが、その後日本の伝統的な神様たちを凌駕していく過程で、「本地垂迹説」なるものが登場します。
曰く、八百万の神々は衆生を済度しようとする仏が、民衆に分かりやすく受け入れられるための方便の形であると・・・。
この説が広く流布されるに従って、人々の間に神と仏の垣根は有って無きが如しの状態になります。
ちょっと話は飛びますが、管理人さんは神社にお参りに行かれた場合、正殿で神様と対峙して合掌されますか?
本来、神様に対して合掌は必要のない行為でありまして、これはものの見事な本地垂迹説の成せるワザであります(笑)
時折、神社での参拝方法をまことしやかに吹聴しているテレビ番組を見ることがありますが、決して大筋では間違ってはいないのに変な違和感はありませんか?
二礼二拍一礼・・・。
それだけを教えていますが、では神様に願い事はいつするのでしょう?
本来、二礼は神様に対する畏怖の念を態度で表したものであって、自然と頭を垂れる素直な気持ちが形式化したものです。
それから二拍。
拍手を二度打つのは自分の存在を神様に知らしめる意味が有ります。
そのあと、直立不動の姿勢で神様に願い事なりご挨拶なりを申し上げ、最後に神の御前を退去する時にもう一度頭を垂れるのが一礼です。
神様の前では直立不動で、願い事に際して頭を垂れることも合掌することも必要ありません。
日本人は習慣で、つい神様にも合掌してしまいますが、それは仏様に拍手を打つのと同じくらい「おかしな」ことなんです。
実は、江戸時代には仏閣で仏様に拍手を打つことは自然と行われていたといいます。
これも、先に言った「本地垂迹説」の影響ですね。