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セレーネのためいき
天智天皇と天武天皇はホントの兄弟か?
少し日本史に詳しい方なら必ずぶち当たる難問ですねぇ。 あくまでも私見ですから、参考にならないとは思いますが、ちょこっと一説申し上げます。 天智天皇は親百済派ですよね、きっと。 だから白村江で敗戦した後、近江に引きこもってしまいました。 水城、防人等々神経質なまでに防備に重きを置きましたが、天武天皇にその傾向はあまりみられませんよね。 言わば親新羅派の天武天皇が大友皇子から皇位を簒奪したとも考えられるわけで、もしかしたら新羅の王族の一人が日本に人質として連れて来られていたのが、新羅の勢力拡大に伴って日本国内での地位も向上したのではないか、などと考えております。 百済滅亡以前の朝鮮半島では、朝鮮人自身による国家の勢力が脆弱で、特に南部を二分していた新羅と百済では、国家を挙げて親日派と親唐派がしのぎを削っていたのは周知の事実です。 だからこそその間隙を突いて任那なる国とも呼べないような出先機関が作られたりしたわけで、民族の習性というのは1500年やそこらでは変えられないという証左でしょうか。 高句麗を忘れているぞ、とのご指摘はこの際一蹴しちゃいましょう。 あれはツングース系の朝鮮民族とはまるで違う民族の建てた国です。 だから何度も唐を撃退するほど強かったんです(笑) 閑話休題。 簒奪によって皇位に就いた天武天皇ですが、これまたあまり長命な方ではなかったので、後を継いだのが持統天皇だったからか、その後親新羅派になることもなく天平白鳳の治世を謳歌します。
あ、そうそう。 天智天皇は、琵琶湖の湖岸を馬で女性のもとに通う途中で暗殺されちゃいました。 だから、遺品が沓の片方だけなんておかしなことになってるんだと思いますよ。
と、以上私見のオンパレードでありました。
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