47 無名さん
日道上人と日郷師が大石寺の跡目を争ったという経緯は全くありません。大石寺は上野の中心部分であり、南条時光さんの没後、大石寺を中心として二分する東西で異なる地頭が上野の地を領するということがあったようです。
東坊地を管轄する地頭が南条時綱であったことは間違いありません。一方、大坊を擁する西坊地、つまり、上野の西側の地頭は「せつはう丸」という方であったと言われています。
南条時綱およびその後継者が日郷さんとその弟子を担いで、血脈付法の御法主上人と対立したという出来事があったのです。その経緯は家中抄道師伝(聖典694〜5)時師伝(741以降)また郷師伝(728)にも若干記されています。
日道上人が日目上人より血脈を受け継いでおり、日郷師と血脈を争った経緯がないという決定的な証拠があります。『日興上人御本尊集』というものがあり、そこに「最前上奏の仁新田卿阿闍梨日目」という授与書きがある日興上人の御本尊があります。
この御本尊は日目上人が天奏の際、御所持された御本尊です。つまり日目上人が美濃の垂井で御遷化され、日尊・日郷師は日目上人の御遺骨、申し状、この御本尊を奉持して天奏の代奏を果たされます。その後、日尊師は京都に留まり、日郷師は御遺骨とこの御本尊を抱いて富士に戻ったのです。そして日郷師は日道上人に事の経緯を報告し、日道上人は立派に使命を果たされた日郷師に褒美としてこの御本尊を授与されたのです。日道上人が日興上人の御本尊に「日道之を相伝し日郷宰相阿に之を授与す」(要集8−206)と添え書きされ日郷師に与えられているという事実からしても、日道上人と日郷師の上下関係が歴然であり、その関係において、跡目を争った経緯のないことがはっきりしております。
日興上人は書写について高僧の書写を戒め、唯一人と徹底しているよ。