57 無名さん
<大正14年11月22日>
●おまい等両人よく聞け予は任意に辞職する3月末日までに(日柱上人/『仏教者の戦争責任』)「辞職勧告」をつきつけられた日柱上人は、宗会議長・小笠原慈聞と評議員座長・水谷秀道(後の61世、日隆上人)の2人を大石寺大奥対面所に呼び、「●」と言い放った。「任意に辞職」という文言に注目。
<大正14年11月24日>
・日柱上人、文部大臣・岡田良平に対し次のような「辞職届」を提示。
●野納儀去ル大正十二年八月廿二日以来管長ニ就職罷在候處多病ノ為メ事務所理難致候ニ付辭職致候ニ付此段及御届候也(日柱上人「辞職届」/『仏教者の戦争責任』)
『地涌』第241号によれば、辞表を書いたのは22日。「宗会議長の小笠原慈聞ほか3名が、同日すぐさま、文部省当局に届け出をするために上京。翌々日の24日、届出の手続きを完了した。」(『地涌』第241号)
<大正14年11月25日>
・有元広賀、水谷秀道、小笠原慈聞の3名、文部省に堀慈琳師の「管長事務取扱申請書」を提出。(『仏教者の戦争責任』)
<大正14年11月28日>
・文部省の下村宗教局長、上記3名を同月28日に呼びつけ、翌29日、宗会による不信任決議ならびに辞職勧告について厳訓し、「決議案及勧告書は取消たらばどうか」と指導。(『仏教者の戦争責任』)
<大正14年12月1日>
・有元ら、決議案及び勧告書を取下げ、ふたたび下村宗教局長に面会。(『仏教者の戦争責任』)
<大正14年12月2日>
・文部省、堀慈琳師に対する「管長事務取扱」就任の辞令を発す。(『仏教者の戦争責任』)
※この時点で相承問題は一応決着していた。後の管長選挙では、堀慈琳師(日亨上人)が当選したのであるが、選挙をするまでもなく、日柱上人は、日亨上人を血脈を相承するに相応しい法器と認められていたということであろう。