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1989年4月15日。FA杯カップ準決勝リバプール対ノッティンガム・F。
会場となったのは、シェフィールド・ウェンズデーのホーム、ヒルズボロ。
この日、ここで奪われた命は実に96人。
イングランドFA杯。ノックアウト・システムで行われ、引き分けの場合には会場を相手のホームに移して再戦が行われる。今でこそ、幾度も再戦を重ねることのないように延長、PK戦も導入されているが、かつては延々と再戦を繰り返した時代もあった。対戦カードは完全なる抽選で決定されていた。
ヒルズボロがFA杯準決勝の会場に初めて選ばれたのは、1912年。
以降、80年近くに渡って多くの名勝負を生み出してきた。
ビル・シャンクリーとボブ・ペイズリー、2人の名将によって長い黄金時代を築いてきたリバプールに対し、智将ブライアン・クラフによって欧州王座にも就いたノッティンガム・フォレスト。どちらも愛称はレッズ。1977年から81年にかけては、この2チームだけで欧州の覇権を分けあっていただけに、両者のライバル意識も強かった。その2チームが準決勝で対決するとあって、チケットは前売り段階で完売した。
イングランドでは、日本のように試合開始の何時間も前からスタジアムに入る者はほとんどいない。

 しかも、ゴール裏がテラスと呼ばれる立見席であることがスタジアムの常識であった時代。身動きの取れない窮屈な場所に早いうちから足を踏み入れることなど、人々にとって有り得ない行動であった。
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午後2時50分。試合開始10分前から異変は起きていた。既にリバプール側のテラスは満杯となっていたにも関わらず、まだ外のターンスタイルの前には長い列が出来ていた。2時55分、選手入場。一際大きな歓声が上がり、早く中に入ろうとする人で入り口は混乱を極める。
だが、リバプールのサポーターに割り当てられたレッピング・レーンでは、このとき雪崩が起こり、ピッチとスタンドを仕切るフェンスに押し付けられる人が続出する。

 前にも横にも逃げ場はなく、あちこちから悲鳴が上がる。
それでも、スタンド前方で何が起きているか分からない人たちは、狭いテラスへ次々に押し入って来る。

 元々、イングランドではピッチを取り囲むフェンスを備えるスタジアムは余り存在しなかった。ゴール裏にフェンスが初めて設置されたのは、1963年。チェルシーのホーム、スタンフォード・ブリッジにおいて。原因はピッチへの乱入者が相次いだため。次第にフーリガンによる暴動が頻発するようになると、ピッチ全面を取り囲むフェンスを必要とする声も多くなり、導入するクラブも増えていった。1985年には、ミルウォールのサポーターがピッチ上で警官隊を病院送りにするほどの大乱闘を起こし、フェンスの必要性を疑う者は少数派であった。

ところが、このフェンスがフーリガニズムとは何の関係もない人たちの命を奪っていった。人波に押しつぶされ、呼吸が困難となる。倒れた人はそのまま下敷きとなり、踏み潰されて行く。キックオフの歓声に加え、試合開始直後にクロスバーを直撃したシーンに大きなどよめきが起きると、中に入れずにいた人がしびれを切らしてしまい、無理に突き進んだ。

 もはや、声も出せなくなった数多くの人々がフェンスに顔を押し付けながら、ぐったりとしている有様。この事態に気付いたスチュワード(係員)が、フェンスの扉を開けようと早くから奮闘していたが、どうにも埒(らち)が開かない。しかも、一部の扉には鍵がかかっていた。苦しむ人々の声を聞き、警官も救出に加わるものの、キックオフ間際の時間帯であったこともあり、運営サイドに緊急事態がすぐに伝わらない。
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